「民藝の100年」展を評して熊谷守一に至る
山脇一夫
この場を借りて短い言葉ではあるが思うところを述べたい。
「民藝の100年」展は、様々な角度から「民藝」を解剖していて「民藝とは何か」を美学、美術史的観点からというよりも時代と社会とのかかわりの中で分析しようとしているという印象を受けた。柳と民藝は切り離して考えられない一体のものだが、それをあえて切り離して民藝に焦点を当てたもので、柳の民藝とはまた別の、生産、流通といった側面にも光を当てたものであって、民藝に関する広汎で総括的な展覧会になっていた。
展示品には多くの解説が付されていて、そのひとつひとつを丹念に読んでいくと長い充実した時間を過ごすことができた。しかし気がついたのは、それが日本民藝館で同じような長い時間をかけて一つ一つの展示品を見た時の充実感とは異質なものであったことである。豊富な解説や資料に目を奪われて総計四百点以上にも上る膨大な展示作品をじっくり見て楽しむことを忘れていた。柳宗悦は「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」と語ったがついそれを忘れてしまったのだった。
もう一つ気になったことは「美の法門」のコーナーで軽く触れられているだけで、仏教思想への言及が少ないことである。「民藝」の思想の根本には日本仏教特有の浄土教の他力思想があったことを忘れてはならないだろう。
ところで柳宗悦は、西洋化へと向かう日本の近代美術の流れに抗して、西洋美術に対抗できる借り物ではない自前の美術、西洋はもちろんのこと中国でも朝鮮でもない日本固有の美術を求めて民藝へと行きついた(中見真理「柳宗悦-時代と思想」2003年、東京大学出版会参照)。
そこでいささか唐突であるが思い出されるのが熊谷守一である。洋画家であった熊谷は「へたも絵のうち」と喝破しながらも、二十数年間も西洋近代の呪縛の中にいた。苦闘の末にそれを逃れてたどり着いたのが独特の様式による「日本的な美」であったと私は思う。そこに私は「民藝」と共通のものを発見した。熊谷は緻密な写実から生まれた線を単純化し様式化(模様化)することによってそこに行きつくことができたのだ。
民画について語った柳の次のような言葉がある。「最も美しい絵画は必然に模様に近づきはしまいか。描写からあらゆる無駄を取り去り、絵を要素的なものに還元する時、すべてに単純化が行われる時、絵は必然に模様に入るではないか。・・・・模様化は絵をもっとも絵にするといえないだろうか。模様になり切ったものこそ絵の絵と呼んでよくはないか」と。