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2023年01月31日 公開

 

今日のグループ展の意味

藤田一人

 

 この一年に渡って美術家によるグループ展の意味について考えてきた。理由は、私が事務局を務め、大崎のO美術館で毎年展覧会を開催してきた「座の会」が、第10回展を終えて解散の危機に遭遇したこと。これまでもメンバーの入れ替わりは少なからずあった。様々な人間が集まり、真摯に議論すればするほど、齟齬が生じることは致し方ない。そんななかで微妙な均衡を保ちながら成立するのがグループ展なのだろう。それでも今回は、グループ結成の提唱者だったベテラン日本画家が突然“解散”を訴えたのだ。ある意味、会の代表格としての明確な意志表明。美大で教授を務めた彼のグループ結成の意図は、大学や大学院を出たばかりの若手が活躍する場を作り、世の評価を得て、そこから美術界へと巣立ってほしいというものだった。しかし、十年という月日を経てもそうした場になってはいない。むしろ、メンバーが固定化して内向きになっている。ならば、十年という節目で開催して、出直そうというのだ。趣旨は分からなくはない。ただ、突然の提案にメンバーは戸惑った。そうして紆余曲折の末に、彼を含めて五名が退会し、残りのメンバーで「座の会」を続けていくことになった。

 よくありがちなグループの内輪揉めと言ってしまえばそれまでだが、そこに今日のグループ展のあり様を改めて考える鍵があるような気がする。会の代表格でありながら、解散を提案した思いは、グループ展にはしっかりとした目的と成果が大切で、それが叶わないのなら意味がないというのだろう。グループ展もだが、今日の美術団体の多くが惰性に陥り、ただ継続することが目的化しているも事実。しかし、一人ではなく仲間が集まって展覧会を開催する意味は世間へのアピールだけだろうか。

  かつてメンバーの一人がパンフレットにこんな言葉を記したことが印象に残っている。「『絵を描いていた事がある』という自分にはなりたくない」と。美大を出て間もない若者の、この言葉は実に正直で切実だ。問題は自分なりに絵を描き続け、発表できる環境を確保できるかどうか?美術の市場性が重視される昨今、そんな思いに寄り添うグループ展の存在が求められている。

 

『美術評論家連盟会報』23号