中村英樹さんを偲んで
高橋綾子
2021年11月14日に中村英樹さんが逝去された。新聞報道で訃報を知ったのが12月7日のこと。ここ数年、お目にかかって相談や近況をお話しすることが叶わぬまま、ついにこの日が来てしまったのかと、しみじみと寂しい想いにかられた。
1940年名古屋市生まれ、名古屋大学文学部哲学科(美学美術史 )卒業。1965年、69年に美術出版社主催芸術評論募集に入選以来、生涯にわたって評論活動を展開、展覧会企画や国際展のコミッショナーや審査員なども務められた。名古屋を拠点に、著作を世に問い、名古屋造形大学では40年もの長きにわたって教鞭をとられた。
中部圏で美術に関わる人の多くが、尊敬と親愛を込めて「英樹さん」と呼んだ。筆者も、30年近く親交を得た一人である。芸術批評誌『REAR』創刊時の思い出は、本会報21号の特集(*1)でふれたとおり。また2014年には、加冶屋健司さんのお声がけで、「日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ 」(*2)で、インタビューする機会を得たことは、今となれば特に感慨深い。評論家としての基軸と展開が時代とどう交差し構築されたのか、ご自身の言葉で記録されたことは、その声亡き後も、響いてくる。
2010年の春、私は思い立って英樹さんの研究室を訪ねたことがある。お隣は、同僚の三頭谷鷹史さんの研究室。お二人に『REAR』24号の小特集として「戦後名古屋の現代美術史」を編みたいので、協力してもらえないかと名古屋造形大学に出向いたのだ。研究室の前の長椅子に並んで座って、三人で話し合った。はじめてのあいちトリエンナーレ開催を前に、発行まで時間がなくて心苦しいが、どうしても執筆してほしい、それがこの地の評論家の責務と矜持ではないかと拝み倒した。有難くも、第一章(1945―69年)を三頭谷さん、第二章(1970―79年)を英樹さん、そして山脇一夫さん、小西信之さんが執筆くださった。
この時の英樹さんは、「高橋さん、無理言うなぁ」と苦笑されたが、けっして不機嫌ではなかった。帰り際の駐車場で車を指差しながら、「僕はね、窓際の刑事コロンボなんだよ」と不意に言われたので、私はキョトンとした。つまり、古い車と年季の入ったトレンチコート、大学内政治には距離をとっているという意味だった。「そんなぁ、英樹さん、いつも黄色い靴下でお洒落じゃないですか」。呑気な応答で笑い合った日が、懐かしい。
代表著作のひとつ『北斎万華鏡』(美術出版社、1990年)のあとがきに、本書のねらいは、「人間の生の根幹にかかわるものとして広い視野に立って美術を考え、現代人が積極的に生きられる根拠を見出そうとするところにあった」と記された。この姿勢は一貫していたと思う。
英樹さんの声はいい。まっすぐに眼差した先に、身体を介して響き、その声は届いていった。
ほんとうにありがとうございました。
(*1)未来の声のために〜芸術批評誌『REAR』の20年 2000年代 地域性(ローカリティー)に拠って立つ
https://www.aicajapan.com/ja/no21takahashi/
(*2)日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ:中村英樹オーラル・ヒストリー 2014年2月16日
http://www.oralarthistory.org/archives/nakamura_hideki/interview_01.php