批評言語のアップデート
大舘奈津子
アーティストを含む文化芸術活動に関わるメンバーにより設立され、私自身も運営に関わる表現の現場調査団が2021年3月に発表した「表現の現場ハラスメント白書2021」は、美術に限らず、演劇、映画、出版、広告、建築など表現の現場におけるハラスメントの実態の一部を明らかにした。約1ヶ月間の調査に対して集まった1449件の回答はスノーボール調査と呼ばれるもので、無作為に抽出される人々に対して行われる量的調査とは違い、回答者の層に偏りがあるため、実態の割合を反映しているものとは言えない。とはいえ、回答者のうち1195名がなんらかのハラスメントを受けた経験があるという事実は十分に衝撃的であった。
この白書では、つきまといや嫌がらせのようなあからさまなハラスメント行為以外に、「テクスチュアルハラスメント」と呼ばれる批評の名を借りたジェンダーハラスメントの存在が指摘されている。たとえば「女性らしい繊細さ」といった表現が用いられることに違和感を覚える作家は少なくない。こうしたテクスチュアルハラスメントに限らず、作家個人の人種、国籍、性別などの属性に言及しながら作品を語ることが、時として差別やハラスメントを内包しうることを、これまで私自身も認識していたとは言い難い。
作品が作家という人格を持った個人もしくは個人の集まりである集団から生まれ、各々の経験および思考が滲出する表現の一形態である以上、それを評する言葉が作品単体のみを対象とせず、作家の属性に言及してしまうことは自らを振り返っても往々にしてある。しかしながら、それが固定概念に基づいた差別表現に当たらないかについては慎重に吟味する必要がある。批評が成立する前提として、対象との対等な関係が担保されているか、不必要な権力勾配をつけていないかどうかなど、少なくともこれから書かれるものについては、そうした想像力を働かせることが自由闊達な議論を生む土壌生成に不可欠であり、書き手はその責任を負う。すでに作品創作において労働環境の改善を含め、自らの作品制作に関わる人たちの権利について意識的な作家たちは増えてきている。であれば、そうした状況下で作られた彼女/彼らによる作品に対峙したとき、それを語る言語においても同様の同時代化は図られねばならない。