追悼 日夏露彦氏
藤田一人
「君のようなうるさい男が積極的に発言してひっかきまわしてほしい。」
日夏さんに、私を美術評論家連盟の会員に推薦する理由を、そう言われた。
そんな私が言うのも何だが、日夏さんこそ実に“うるさ型”で“口の悪い”美術評論家だった。展覧会のレセプション等で立ち話をしても、次々と日本の美術界の批判が飛び出してくる。未だ権威主義を引きずる日本芸術院会員や文化勲章、文化功労者等の選出について、視野の狭い美術商が差配する日本の美術市場について、そして、右傾化する日本の政治状況に無関心で、ただ追随するだけの美術界全般について、等々。一見、時代が変わり、日本の美術状況も大きく変化しているようで、その実何も変わってはいない! と、一貫して言い続けた。それも、いや、それが日本の美術評論家の役割だというように……。
勿論、こうした姿勢は、著書『 日本美術・ 負の現在』 にも貫かれていた。それはまさに反体制的美術批評であり、良くも悪くも、日夏露彦の美術評論家としての姿勢。
ただ、私が日夏さんの文章で興味深いのは、そうした反体制的姿勢を押し出す“うるさ型”の論調ではなく、むしろ、自身の周辺で見続けてきた画家達への細やかな視線。例えば、父である日本画家・中島清之の個性的で自由闊達な画業を論じた文章。それにも増して印象に残っているのは、父・清之に師事し、「横浜山手之図」なる洋館風景の連作で、院展を舞台に異彩を放った宮本昌雄に関する評論。例えば、1997年に横浜市民ギャリーで開催された回顧展のカタログに掲載された文章。片岡球子に憧れて日本画を志し、彼女の紹介で中島清之に師事。その後、日本鋼管でのサラリーマン生活時代は周辺の工場地帯を、そして定年退職後に山手付近に引っ越して異国情緒豊かな洋館を描き続けた宮本の画境を、「素朴な心を持ち続けた」と評した。
“素朴”という称賛の言葉は、なかなか日夏さんとは結びつかないのだが、父・清之が他に何と言われようと、自分が描きたい絵を誠実に描き続けることに、“素朴”な美徳を感じていた。ならば、それは彼の批評にも通じていたのかもしれない。「俺はただ、思ったことを言い、書く!それが批評だ」と。
日夏さんは「最近の美術評論家は論争をしようとしない」と、よく愚痴っていた。いま思うと、その気持ちは少しだが理解できる。