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2022年01月22日 公開

編集後記

gnck

 

 毒を持つ生き物はしばしば(トートロジーな物言いになるが)「毒々しい」見た目をもつ。「毒々しさ」を感じられるのは、経験や進化を経ることで、毒そのものと、その危険を伝える見た目が結び付けられることで、初めて「感じ」が獲得されるものだ。ところが一度その結びつきが獲得されれば、実際には毒を持たないにもかかわらず、「毒々しい見た目」に擬態するものが現れる。擬態している無毒の生き物は、真の毒をもつものからすれば、毒を作り出す労力にフリーライドしていることになる。それは、「毒々しさ」の価値を毀損し、真に毒を持つものの捕食のリスクを増大させる行いなのだ。評論家というのは、言ってみれば、真に毒を持つものかどうかを見分ける者のことだ。

 専門家が何故信頼されるのかといえば、それは専門性に対して誠実であるからにほかならない。評論家の専門性は、高度に文脈が蓄積された領域において、提出された作品に、より妥当な評価を、検証可能な形で下し続けることでしか保証されない。(この批評の活動は、芸術が前衛という性質を――常にこれまでの評価基準だけでは、評価しきれない作品が、しかし、これまでの芸術と連続性を持って現れるという――もっている以上、芸術の活動にビルトインされた役割である。)専門性を騙ることは、当然専門性を毀損する行為である。

 真の毒を作ること。擬態を峻別すること。毒々しさが毒々しさと感じられる基盤を作り出しているのは、飽くまでも地道な要素の集積である。この会報もまた、一気呵成に信頼を挽回しようとするものというよりも、地道な積み上げでしかない。その一歩となれば幸いである。

『美術評論家連盟会報』22号