オリンピックへの無批判と奉賛美術の2021年
アライ=ヒロユキ
アクティヴィズムやアートプロジェクト、ソーシャリー・エンゲイジド・アートの洗礼を受けた現代において、美術は社会との関係性を無視できない。「社会性」じたいはニュートラルで、国家主義や社会のマジョリティを志向するのか、マイノリティを尊重する市民の複数性を志向するのか、ふたつの相反するベクトルがある。後者は厳密な意味での公共性だ。
2021年は日本の美術にとって「社会性」の意味を図る試金石の年だ。具体的には、東京五輪に美術の批評や表現がどう向き合ったかだ。新聞の意識調査で8割強という市民の反対を無視して強行開催し、COVID-19の多大な拡散を招いた東京五輪は国家的犯罪だ。数年前の美術界は対抗的な意見や表現が散見されたが、いざ開催となると(批評も含め)批判や抗議は僅少だった。筆者は、連載原稿(「アートと公共性」、『月刊社会民主』)、トーク発言(「オリンピック終息宣言2021」展)、批評家/研究者の日仏共同声明「日本人と五輪を考え直す」などで批判を展開した。
オリンピック奉賛美術も生まれ、その最たるものは「パビリオン・トウキョウ2021」だ。建築家の参加が多いが、出品作家は自作コンセプトに「異次元性」「別世界性」などと発言。これは市民の苦衷をよそ目に高みから見下ろす特権性の言葉だ。本展はアーツカウンシル東京の運営事業。ひところ「アームズ・レングス」の観点から、日本でのアーツカウンシル待望論があった。しかし結局は国家主義の祭典の奉賛に帰結。美術の自律性とは、国家制度や社会的因襲の枠の中での「特権的自由」と多くが理解しているかのようだ。
出羽守となるが、欧米のアートにおける公共性では「正義」(JUSTICE)が大きな柱だ。歴史正義なら植民地主義批判や略奪美術品の返還、ジェンダー正義ならジェンダー視点の収蔵品組み替え、気候正義なら化石燃料産業からの寄付拒否。美術評論家連盟の林道郎(前)会長のスキャンダルも正義の欠如である。本論の結論は「正義のすゝめ」だ。