小倉正史氏を偲ぶ
遠藤水城
2020年3月1日、美術評論家の小倉正史氏が末梢性T細胞リンパ腫のため、85歳でお亡くなりになった。
1983年から1990年まで、彼は美術雑誌『アトリエ』の編集長を務めていた。その当時編集部には黒沢伸氏、小西信之氏、西原珉氏、長谷川祐子氏、宮島達男氏らがいたという。残念ながら、わたしはその時期の彼を知らない。90年代後半にはいくつかの重要な展覧会を企画しているはずだ。日本のアートシーンにおいて小倉氏の果たした役割が今後再評価されることを願う。
2007年11月9日、わたしは初めて小倉氏に出会う。引き合わせたのは美術ジャーナリストの新川貴詩氏である。当時勤めていたアーカス・プロジェクトで講座を開催するおり、彼が小倉氏の招聘を発案したのだ。
つまるところ、わたしが知っているのは、ただ晩年の彼である。
わたしは、その後も何度か小倉氏の講座を企画した。彼の話は初学者にわかりやすかった。言葉の使用が正確かつ的確だった。フランス語に堪能であることによるものだろう。また、小倉氏はその後、自身でも小さな勉強会を各地で自主的に開催していた。そういった小さな知的サークルの影響力は過小評価できない。わたしが出会った小倉氏は「在野の人」だったが、確かな存在感を周囲に放っていた。在野的な知の優位を誇ることのできる人だった。
2011年3月4日、小倉氏はわたしを美術評論家連盟に加入させるべく、事務局に問い合わせのメールを送っている。そんな気など全くなかったわたしを説得したのは彼である。
2011年3月13日、小倉氏はわたしに電話をしてきた。当時彼は千葉に住んでいたが、わたしのいる京都に避難をしたいので、いろいろ手を貸してくれという(あの時、彼がまず頼ったのは、わたしと坂口恭平氏だったと記憶している)。リュック一つでやってきた彼に、できる限りのことをしたとは思うが、それが十分だったか、今となってはわからない。
震災後の小倉氏はある種の「漂流」を余儀無くされる。しかしそもそも小倉氏は漂流の人であり、デラシネ的な実存は震災よりも遥か以前に確立されていたような気もする。いつ出会っても変わらない、彼の飄々とした軽さには、ある種のすごみが宿っていた。無駄な権威やしがらみを全く持たず、自身の知と経験のみを分有することに従事した晩年の彼は、美しかったと思う。
2020年3月10日、彼の訃報を受けたわたしは、ハノイにいて、何もできない。弔問することはおろか、日本に帰ることもできない。この弔文が故人に届くことを祈るばかりである。