追悼「谷新」
有木宏二
追悼文の依頼に対し、はたして引き受けてよいものかどうか、しばらく迷った。というのは、ほとんど宇都宮美術館における館長としての彼しか知らない私にとって、いわば社員が社長を評するときのように、どこかぎこちのないものになりはしないかと恐れたからだ。
とはいえ、死はある種の浄化であり、さまざまな感情を整理してくれる。仕事上では、協働のみならず反発もあり、悲喜こもごも、激しい言葉も飛び交ったが、仕事がらみの会話の内容は、いまとなってはきれいに抜け落ちてしまっている中、それでもなお、しつこく残留する何気ない一言や表情、それこそが語るべきこととしてあると、いまの私はそのような心境にある。
いつだったか、そのペンネームの由来を尋ねたことがある。答えは、郷里の長野県岡谷市から「谷」の苗字をもらい、名を「新」とした、というものだった。併せて、高い山に囲まれた美しい眺望のことや、冬の朝のつらい思い出なども、言葉少なに話してくれた。かつて「たにあらた」とひらがなで表記されていたペンネームが、いまや「谷新」と漢字の表記になり、より郷里とのつながりが明示されるようになっているわけだが、少なくとも自らの出生地に対する崇敬のような思いがなければ、「谷新」にはならなかったのだろう。
諏訪市、茅野市とともに、いわゆる諏訪地域を形成する岡谷市。その地域には、例えば東山魁夷が《緑響く》を構想した御射鹿池があり、国宝の「縄文のヴィーナス」が人知れず埋もれてもいた。さらには彼が好んだ美術家の一人、辰野登恵子も同郷人だし、『コドモノクニ』で知られる武井武雄もいた。「新」に込められた多様な想像力の系譜の更新。しかも諏訪地域が培った美意識は、圧倒的に自然的なのだ。彼が批評の対象としたものや、選択した言葉遣いには、土着の自然観が打消しがたく息づいている。「谷」がほのめかす自然への愛着と畏怖は、いうまでもなく「新」しく、古びることはない。その逆説が、彼のアイデンティティだったと私は思う。
一度、那須の自宅にお伺いしたことがある。書斎の窓から見える緑の風景を指差し、これがとてもいいんだ、と嬉しそうに教えてくれた。そのときの表情が、忘れられない。ずっと忘れないだろう。