新聞紙面における批評の試み
1990年代以前 前史として
安黒正流
1970年の前回の大阪万博の頃から、1997年に停年退職するまで、30年近く、大阪讀賣新聞で美術記者を務めました。美術記者になって最初に受け取った手紙が、具体美術協会の解散報告でした。
井上靖とか司馬遼太郎とか、大阪の美術記者からはビッグネームが出ています。暇で楽でのんびり勉強できると錯覚して志望したんですが、時代は変わっていました。戦中戦後は紙面もなく、日展の紹介だけが仕事だったそうで、先輩記者から日展を3行で総括する方法など教わって面白がっていましたが、もうそれでは間に合わない時代になっていました。
伝統美術、近代美術は、戦時下に東京一極集中が完結して、関西で手が出せるのは現代美術しか残ってない。土方定一、河北倫明体制の外で動きたい。多様化する現代の美術は一人で追っかけられるものではない。わかっている人に助けてもらおう。当時、いわゆる現代美術がわかっている人は?関西の重鎮、木村重信さん、乾由明さん、当時をときめく御三家の一員中原佑介さんといった、権威におそるおそる執筆を求めました。
それでどっち向いて動くことを、時代が求めているのかにちょっと見当は付いてきました。新設の兵庫県立近代美術館に就職し勢いよく新しい美術館像を打ち出していた山脇一夫さん、中島徳博さんを執筆陣に加えてだいぶ前向きの勢いを加えました。
万博公園に国立国際美術館が開館して、村田慶之輔さんや建畠晢さんが、京阪に移住してき て、関西美術の新戦力に加わり、新鮮な光の当て方をもたらせてくれました。
大阪では信濃橋画廊、番画廊、ギャラリー白等々。京都のギャラリー16、アートスペース虹、ギャラリー射手座等。貸画廊が活気づき、画廊が現代美術活動の中心を担った時期には、同志社大を辞めて国立国際美術館に異動した中村敬治さん、大阪芸大で教えていた篠原資明さんが新たに執筆陣に加わって、キャンパスと画廊の間の、現代美術が生まれる空間に密着した、生きた論評を寄せてくれました。
美術記者が自分で書くのでなく、原稿を下請けに外注するという形態は、先行各新聞社ではあまり行われていなかったようですが、後発の大阪讀賣では当たり前のようにそうなっていました。
現代美術の画廊で、コンスタントに意欲的な発表が行われ、それに反応し評価できる評論家がいる関西では、大阪讀賣の報道体制は、正しいはずでした。実際、美術家と論者のぴったり合う組み合わせを考え、刺激的コメントが得られる日々は、充実していました。
けれど、1990年代には、現代美術、関西の美術界は、停滞の気配を濃厚にし、脱出不可能の袋小路にはまり込んで、進路を断たれてしまったようでした。
新聞社は終身雇用ですが、美術記者の耐用年数は10年くらいでしょうか。在任20年を過ぎると新しい動向が、新鮮に感じられなくなりました。
コンセプチュアル、ミニマル、ニューペインティング、ポストモダン。枚挙に暇無いイズムがアートシーンに点滅し、極東の島国の端っこの関西でも、いよいよ西欧近代の大団円が来たことを覚悟しました。
そもそも、西洋近代の文学、音楽は19世紀に盛期は終わって、20世紀は惰性の残り火でした。美術だけが独り、20 世紀に入ってから、フォーヴィズム、キュビスム、 アブストラクト、シュールと西欧近代の末尾の花を咲かせたが、戦後アメリカの抽象表現主義以降は近代の残り滓だった。
そして非西欧の文化圏から、みごとに最初に近代化を果たした日本でしたが、成功したのは帝国主義だけ。文化とりわけ美術は、明治大正に少しばかり真似を始めたところで、戦争に阻まれ、戦後になってついにエッセンスに触れることができるようになり、日本独自の近代美術として光芭を放った。
走泥社、パンリアル、具体。かれらが開いた世界を探索して、しばらく関西の美術は活気を保ったが、その親元である西欧近代は終わっていたから、関西の前衛美術はガラパゴス化して生産性を失います。
画廊での発表が、商業新聞紙面で論評されることは、美術家の励ましにはなったと信じま す。でも、もう新聞の美術報道には、関西前衛美術の頽勢を覆す力はありませんでした。
更に追い打ちを掛けたのは、ポピュリズムでした。美術は、分りやすく面白いことを標榜して、美術をネタにおもしろおかしい物語を描く人たちが輩出するに及んでは、美術読み物はお任せして、 20世紀の美術記者なんてお役御免、退場するしかありません。
20世紀末の大阪讀賣の美術欄を飾ってくれた美術家の皆さん、執筆者の皆さん。大阪讀賓と関わった経験が、皆さんの良い思い出となって残っていることを祈っています。