「夕闇が迫る/ホームというかたちがあっても/限りなくホームは遠い/還ることばの場処がない」(「考える人」)。ワシオさんの詩の朗読を初めて聴いた。詩集が出版された確か1970年のことだ。わたしの耳に残る、感情を抑えた、やや重いことばの響き。
ワシオさんとの初対面は、『美術の窓』誌が当時経営していたギャラリーにおいてだった。そのときは、お互いの自己紹介で終わったが、その後、年に数回、団体展の仕事で、ご一緒した。彼が詩作し、美術評論を書くことに、わたしは関心を抱いていた。彼のエッセイ「いわゆる“詩人美術評論家”の系譜」を読むと、詩ひとすじに生き、生活してゆくことの困難さが感じられる。ワシオさんが師として仰いだのは、詩人金子光晴だった。抵抗詩人、反戦詩人と半ば伝説化されたこの詩人を、むしろ「厭戦詩人」と呼ぶべきだと言い、真の叙情詩人だったとし、その詩を「抑制され計算された叙情」だとみなした。これは、ワシオさんの美術評論のスタンスにも当てはまるだろう。
ある団体展の審査後、会話が弾んだことがあった。「ジャン゠ポール・サルトルと東北の釜石のことを知っているかい」と彼が尋ねた。「なぜ、あのフランスの有名な作家が」と聞き返すと、いかにも楽しそうに話すのだった。彼はうたっている。「少年はどんなに胸をときめかしたことだろう/セーラー服の水夫が戯れながら/サルトルの「嘔吐」にその名を留める/鉄と魚の三陸海岸都市かまいし」(「釜石港」)。
彼は、ふるさと釜石を愛してやまなかったが、あの東日本大震災は彼の母の妹を奪った。それに続く母の病死。彼の体調が崩れ始めたのは、その頃からだったであろうか。「還ることばの場処がない」深い哀しみ――。
さようならワシオさん。さようなら。合掌。