本江邦夫氏を偲ぶ  建畠晢

2019年11月23日 公開

 本江邦夫氏がこの6月に忽然として世を去られた。長年にわたる多摩美術大学での教員生活を終えたばかりで、留学生だった教え子たちに呼ばれて行ったソウルから帰国し、羽田に着いた直後に心臓の発作で倒れたと聞いている。授業を一度も休講したことがないという教育熱心で知られ、学生たちからも慕われていたから、韓国で多くの教え子たちから大歓迎を受け幸せそうに微笑んでいる写真を最後に残して天国に旅立ったのは、まあ彼らしい締め括りであったといえなくもない。

 東京国立近代美術館ではチーフ・キュレーターをつとめ、大学では理事や大学院長の職にあり、美術史家としては浩瀚なるルドンの研究書で賞を受け、評論家としては一貫して絵画論の論陣を張り、数多くのコンクールの審査員を委嘱されてきた彼は、世間的には典型的な美術界のエリートと思われていたに違いない。プライドの高い性格で、先輩の評論家に対しても平然として上から目線の言い方をすることがあったが、その歯に衣着せぬ発言こそが彼ならではの存在感をなしていたようにも思う。

 私が彼の名を最初に目にしたのは、今から40年ほども前、東近美で開かれたマチス展のカタログに記載された作品解説であった。大阪の美術館の新米だった私は、その透徹した論理と分析を読んで、日本にもこんな学芸員がいたのかと感服し、出張の折の昼食時に竹橋まで会いに行った記憶がある。以来、美術から詩にわたる象徴主義の思想についてもいろいろ彼から学ぶ機会があったのだが、なかでも1980年代の新表現主義の全盛期に『美術手帖』(19847月号)に掲載された「イメージはいつも傷ついている」と題されたテキストは、現代絵画の理解に象徴主義的な視点を持ち込んだ論考として瞠目に値しよう。

 上から目線とはいったが、本江氏には海外のシンポジウムの壇上でカモノハシの縫いぐるみを手放さずにスピーチをしたというような、なんとも愛嬌のある一面もあった。いささか自虐的なところのある私は、彼と珍妙な二人三脚のような歩みを40年にわたって続けてきたのだが、彼にしてみれば頼りない一つ年上の弟の指南役を引き受けさせられたつもりでいたのかもしれない。一人残されてしまったという喪失感から私は未だに抜け出すことが出来ないでいる。

 

『美術評論家連盟会報』20号