古い話題で恐縮です。東京五輪が近づき、ふと1964年の東京五輪の頃を想い出します。美術運動の裏で消えた小さな催しがありました。関係者として反省をこめて、記録しておきます。私は港区麻布霞町の画廊「アート東京」におりました。現在の六本木七丁目。アマンド前から交差点を渡った角、有名な誠志堂書店(現在は同名義の商業ビル)のすぐ近く。向かい側には六本木ヒルズや森美術館など影も形もなく、静かな丘の村がありました。
その頃、現代美術をめざす画家たちには既成の団体展への拒否感があり、独立したグループや個展の活動が活発でした。しかし意欲的な若い世代はチャンスがつかめない。こうした状況の中、翌1965年に非難も覚悟で、小さな画廊が公募展というタブーに挑んだのです。「新人オークション展」なるものを企画し、美術雑誌への一頁広告、メディアへの趣意書などで公表しました。簡単に言うと、有名無名を問わない応募者による10号以下の作品を、厳正に審査した入選作品から、最優秀者に新人賞1名、各賞14名を決めます。審査委員は斎藤義重、加山又造、高間惣七、針生一郎で、喜んで引き受けてくれました、針生を除いて。あの方は日和見主義から辞退しました。業界の意見など耳にしたのでしょう。
次の段階として入選作品を画廊に展示し、一般の来場者が入札価格をつけるというオークションを行う。これが難問です。一般の愛好者を当時の六本木に来てもらうのは大変です。夜の六本木にご食事付き招待なら話は別でしょうが。
ともかく搬入締め切りの6月末までに、全国から1010点が寄せられました。すでに国際展や個展で活躍する作家もおりました。7月4日午前10時から、大作家三人による選考を開始(委員には作者名を伏せてあります)、新しさ、個性、魅力、技術などを基準に選考はつづきました。最終的に合計78点を入選作品と決定、その中から最優秀新人賞として谷川晃一を選出、ほかに4スポンサーによる受賞が14名です。夜の11時近くになっていました。斎藤義重は平然と「楽しかった。ちっとも疲れなかった」と語り、作品の区分けの連続に疲れきった若輩の私には驚きでした。
そしてオークションの会期に入りましが、『週刊新潮』の時評コラムが噛みついてきました。「会場に来もしないで」と立腹した画廊主に代わり、私が代わって抗議文を送ると、有名編集者がにやにやしながらやって来ました。オークションの最高価格は21000円で、小串里子がオークション賞を獲得。この第一回新人オークション展の総括は、画廊発行の冊子「アート」特集号で、審査委員による合評会、新人賞受賞者の紹介、全入選作品のモノクロ写真、作者名などを収録しました。重要な部外資料として、『美術ジャーナル』(編集発行・宇治美枝)55号で、乾由明(後の京大教授)による展評が「新人オークション展始末記」として特記し、内容の紹介と適切な批評をされています。
なお10月には関連の特別展として、梅花亭ギャラリー(現六本木ロアビルに吸収される前の、和菓子店が経営する貸し画廊)の申し出を受け、谷川晃一、高岸昇、近藤文雄による「ソウルアート3人展」を開きました。当時、藤松博ら「ひとがた」表現の絵画傾向が「ボディーアート」と呼ばれたのに対応したタイトル。ジャズの名曲「ボディー&ソウル」(身も心も)がヒントです。まもなく「アート東京」は解散。私は東京画廊の山本孝に呼ばれて移籍し、破格な前衛芸術家、篠原有司男の「花魁シリーズ」展(1966年2~3月)を担当、翻弄されつつ愉快で貴重な体験をもらいました。4月には私大に移るという始末記でした。
(文中敬称略)