富山県立近代美術館問題を巡り、美術評論家連盟の声明文が報道関係各社などに送付されたのは1995年8月16日で、同館に要望書が発送されたのは、1995年9月27日である。「’86富山の美術」の一連の問題が起きてから約9年後のことである。現在の美術評論家連盟が、近年こうした問題に対して事後すみやかに声明文の発表や質問状の送付を行うようになったことを思うと、遅きに失した感がある。
発端は、三頭谷鷹史会員から出された「富山県立近代美術館の暴挙に抗議する」という問題提起で、1993年9月10日の常任委員会において協議された。「暴挙」とは、1993年4月20日に富山県議会に大浦信行作品が匿名の個人に売却されたことが報告され、5月1日に展覧会図録の焼却処分が判明したことを指している。当時の委員会では「同館が今回取ったと思われる措置に対して、美術評論家連盟として何らかの形で意見を表明するというのはむずかしい。それぞれ何らかの表明をする場合はあくまでも個人として行なう」という極めて消極的な回答となっている。
同委員会の出席者には、大浦信行の「遠近を抱えて」の連作が発表されたギャラリー山口(東京)での個展(1984年)のパンフレットに寄稿した針生一郎常任委員もいたが、針生は1986年に富山で問題が起きて以来、推移を見守り続けてきた一人である。三頭谷会員が指摘する以前から、針生は、たとえば1993年6月6日に富山県民会館で行われたシンポジウム「私達にあしたはあるのか」に憲法学者の奥平康弘、デザイン評論の柏木博、詩人で「’86富山の美術」の招待作家選考委員の林昭博、同展出品作家の堀浩哉らとともに登壇しているし、針生の肝いりで抗議の署名活動も展開している。さらに1994年から始まる訴訟の原告に小倉正史会員らとともに名を連ねた。針生には個人的にすでに支援活動を行ってきたという自負があったに違いない。
一方、三頭谷会員は、「富山県立近代美術館問題」が特集された美術雑誌『裸眼』7号(1988年12月)に「終身刑!?となった芸術作品」という文章を書いている。さらに三頭谷会員は、1993年6月に、『裸眼』メンバー6名(岩田正人・佐藤英治・鈴木敏春・西島一洋・三浦幸夫・三頭谷鷹史)の連名で富山県立近代美術館に抗議声明を出している。
その後、1993年11月11日の総会の席上、「再度三頭谷氏より再検討できないかという要望が出されました。これについては、次回の新しく組織された常任委員会で再検討されることになりました」という報告が、議事録「5・その他」に記載されている。
ところがそれから1年間、特段の進展がないまま、一方で全国各地の美術館でさまざまな問題が相次いで起きていることから、1994年10月26日の総会では、「このような問題については常任委員会で討議し、評論家連盟としての見解を明かにしていってほしいという要望が昨年に引続き出され、常任委員会で検討していくことが再度確認されました」という報告が、議事録「6・その他」に記載されている。ここでは三頭谷会員の名前は記されていないが、同総会に出席した三頭谷会員は、「前年にこの問題への対処を付託された常任委員会の報告を求めたが、委員会は「検討しなかった」と答えるにとどまり、再度同委員会の検討に付される」という記述が、『あいだ』1号(1995年2月)のクロニクル77頁に記されている。
そして1995年4月28日の常任委員会で、議題の1として「富山県立近代美術館及びその他の美術館の件について」が掲げられ、富山県立近代美術館の「一連の問題は、すでにこの件が起きてから約10年を経過しており、今から富山県立近代美術館に対して見解を表明するのはおかしい。またそれぞれの美術館の考えは尊重すべきであり、評論家連盟がそこに意見を述べるのはいかがなものか。従って抽象的な一般論で評論家連盟として批評の危機を感じる旨の声明文を、また、もう一通は会員の中から有志の署名入りでもう少し強い調子の抗議声明をそれぞれ全国美術館会議宛てに出す。前者は針生(一郎)さんが、後者はヨシダ(ヨシエ)さんが案文を作成し、常任委員会に諮る」(カッコ内、筆者補記)というように、ようやく具体的な対応策がとられることとなる。三頭谷会員の問題提起から約1年半が経過していた。
さらに1995年6月2日の常任委員会議事録において、「富山の問題などはすでに皆が承知のことであり、今となっては時が経ち過ぎている。それよりも美術館の在り方を考える上で一番大事な事は、学芸と行政の間を緊密にすることであり、そのことを具体的に声明文に盛り込むべきである」とあり、「その方向で案文の手直しを行い、再度常任委員会で検討」するという風に案文の作成に時間をかけている。
その後まもなく完成した案文を1995年6月14日付のお知らせで、事前に常任委員各位に送られ、1995年7月10日の常任委員会までに検討するよう、通知される。
そして7月10日の常任委員会で確定した要望書を有志の連名という形で富山県立近代美術館に提出するべく、会員各位に向けて依頼状が1995年8月30日付で発送された。
声明文の方は一足早く、1995年8月16日に新聞各社、美術雑誌、及び全国美術館会議、美術館連絡協議会、日本美術家連盟へそれぞれ送付され、要望書は9月27日に富山県立近代美術館へ美術評論家連盟有志67名の連名により送付された。その経過と報告が、1995年11月17日の総会で「7・声明文及び要望書について」の項目で簡潔に報告されている。
『富山県立近代美術館問題・全記録-裁かれた天皇コラージュ』(桂書房、2001年)の「大浦作品問題」大年表には、1993年9月10日の常任委員会、同年11月11日の総会、1994年10月26日の総会、については記録されているが、声明文や要望書を出したことに関する記述が見当たらない。大年表は、県の人事異動や誰と誰が会って面談したとか、実に詳細なものだけに、美術評論家連盟のその後の活動が漏れているのは不思議である。ただ、地元新聞や地元メディアが報じていない可能性もあり、富山県立近代美術館も要望書を受け取っても、そのこと自体を公表していないのではないかと思われる。
冒頭で、「遅きに失した」とか「消極的」という表現を使ったが、即応的に対処する方向性を打ち出した近年の美術評論家連盟の視点から見たら、そう言わざるを得ないということである。実際のところ、当時の美術評論家連盟内の考え方や置かれた状況がはっきりとは分からない。情報の伝達にも時間がかかる時代であった。また富山での出来事が県内のローカルな話題としてしか知られていない事情もあったと思われる。しかし、いち早く富山の問題に関心を持った三頭谷会員の再三の問題提起がなければ、声明文も要望書も作成されていなかったのではないかと思われる。
※ ※ ※
私は、かなり早い時期に美術評論家連盟会員となった。富山県立近代美術館の初代館長の小川正隆から推薦を受け、あまり事情が呑み込めないまま、資料を提出し、総会でかろうじて承認された。が、当時は(今なお課題として見る向きもある)学芸員を会員にしていいのか、という議論があったという。そもそも美術館は批評される側であり、美術館で何か事が起こった場合、批評の矢面に立つ人(館長や学芸課長など)が連盟の会員となってしまう。このことが常態化すれば、批評の矛先への追及が鈍るのではないか、というものだったように記憶している。もちろん美術館での展覧会活動も一つの批評行為であり、それ自体は評価されるべきだし、本務を離れての批評活動も自由でありそれなりに活発に行えるわけだから、学芸員が連盟の会員となることは目下のところ重要かつ必然である。
しかし、ひとたび事件の当事者となった場合、たとえば「表現の自由」を守るのだ、と本心では思っていても、議会や政治家との関係、あるいは雇用関係にある県知事や市長などの意向に背けない判断が生まれる場合が少なくない。となると、自らが放った批評の矢は、ブーメランのように自分自身に戻ってくることになる。
ところで、私は当時常任委員ではなく、総会にもほとんど出ていなかったが、美術評論家連盟の会員として、有志の一人として名前を連ねた。しかし、複雑な気持であった。なぜなら私はかつて富山県立近代美術館に勤め、「’86富山の美術」の副担当であったからだ。1985年暮れに、大浦信行の東京都内の自宅に展覧会の出品作「遠近を抱えて」の集荷に出向いたのは私であり、「富山の美術」を組織するための招待作家選考委員会の資料作りの一端を担ったのも私であった。展覧会の2年前、私は1984年の個展(ギャラリー山口、東京)を富山から見に出かけ、大浦本人に会っていた。昭和天皇が作品内に登場するので、都内での発表場所がなかなか見つからなかったという苦労話を聞いた覚えがある。
「富山の美術」とは、富山県立近代美術館が企画する展覧会の3つの柱(国際、日本、富山)の一つで、同館の開館年である1981年に始まった。概ね2年に一度の開催で、継続的に富山県出身ならびに富山ゆかりの作家たちの現況を30名前後の人たちの作品によって紹介する展覧会であった。「’86富山の美術」は3回目に相当し、’81年と'84年の出品作家と比べ、年齢が若返るだけではなく、新しい試みに挑戦する作家たちが増えた回であった。大浦信行は、そうした気鋭の新進作家の一人として、初めて招待されたのである。
招待作家は、前述の委員会によって選考されるが、小川館長に加え、外部の美術評論家や有識者で構成された。「’86富山の美術」の選考委員は、玉生正信(富山大学名誉教授)、津山昌(美術評論家)、林昭博(詩人)、それに小川正隆館長を加えた4名であった。ちなみに選考委員は、その後内部の学芸員からの人数が増え、「'95富山の美術」では館外からは1名だけで、残りの4名の委員は館内の学芸員が担うこととなった。
選考委員会の資料作りは、担当の学芸員に任されるが、選考委員から事前に推薦された作家たちも調査し、できるだけ清新な息吹を感じさせる作家たちが選ばれることを目指した。それゆえに普段からのリサーチが重要で、私は富山県関係で少しでも面白い仕事を展開する作家たちを探し出すことにやりがいを感じていた。大浦信行もそうした一人であったというわけである。
要望書が富山県立近代美術館に送付された1995年、私はすでに同館を離れていた。1991年末に同館を退職して国立国際美術館(大阪)に移り約4年が経っていた。かつての所属館を離れていたから署名をしたのだが、もし富山県立近代美術館に在籍したままだった場合、要望書に署名することはできなかった。学芸員が美術評論家連盟の会員になった場合の課題がこうした場面で露呈するのである。
1993年に作品の売却と図録の焼却が行われたことを知ったときはショックであった。その経緯は今もはっきりとは分からない。考えられるのは、前年の1992年8月4日に、執務中の中沖豊富山県知事に右翼幹部が殴りかかる事件が発生したことだ。これ以上「遠近を抱えて」を美術館が保有していては、こうした暴力事件が再び起こりうる。何か方策を講じなければならないと、県の幹部が考えたであろうことは推測できる。その方策が、暴力を防ぐことではなく、問題の作品を売却し、図録を焼却することであったわけである。
なお、本作品が展示された「’86富山の美術」展図録に関しては、富山県立図書館で本図録の閲覧請求者が「遠近を抱えて」掲載頁を損傷する事件が続き、1986年9月には閲覧・貸出停止の措置がとられていた。図録の公開に関しても事件は発生していた。
最後に、あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」の展示中止に関連して、33年前の1986年に富山で起きたこととの相違点と類似点を簡潔に記しておきたい。
■相違点1 物議をかもした時期
「’86富山の美術」(以下、’86)では、会期中は特にクレームもなく、大浦作品の収蔵を検討する委員会でも了承されたが、会期終了後に議会で問題視された。
一方、「あいちトリエンナーレ2019」では、開会直後に展示作品の一つである「表現の不自由展・その後」(以下、不自由展)が物議をかもし、3日間で中止に追い込まれた。会期の最終週に条件付きで再開された。
■相違点2 抗議の手法と数量
’86では、電話、会見、デモ・街宣、文書抗議など(FAXは設置されていなかった)の累計が1986年において44件、1987年以降1993年までの抗議活動は、毎年10件以内で、デモや街宣は1986年のみとなっている。
一方、不自由展では、7月31日の内覧会の日から8月3日までの4日間で、電話約4000件、FAX約400件、メール約6000件に達した。脅迫やテロ予告も含まれる。街宣も一部行われていたようだが、富山での街宣車52台でのデモ行進のような大規模なものではなかった。当時と現在ではネット状況(ネット右翼の存在、SNSの拡散など)も大きく異なる。
●類似点1 作品の非公開あるいは展示が中止となった理由
’86では、所蔵作品である大浦信行の連作「遠近を抱えて」を「美術資料として保管するにとどめる」とする方針を館長見解として出す。富山では、廃棄せよという立場と鑑賞したいという立場双方からの特別閲覧の請求がたびたび出されたが、いずれも却下。作品の安全や立ち会う側の安全も考慮したがゆえ、というのが一つの理由であった。館長の内心としては、館長見解はあくまで当面の措置であり、いずれ公開するつもりであった。
一方、不自由展では、「来場客が安心して鑑賞できない恐れがある」という理由から、展示が中止となった。愛知県知事は、検証委員会を設置、再会に向けた議論が行われ、現実に条件付きではあるが、最終週に再開された(この点は異なっている)。
●類似点2 政治家が関与したことで、報道メディアが反応
’86では、展覧会を実際に見ていない議員も多い中で、議会でのやり取りを取材した地元の有力新聞が「天皇ちゃかし不快感」という大見出しの記事を載せる。
不自由展でも、やはり実際の作品を見ていない人が多い中で、国の中枢にある議員や県外の知事までもが発言、テレビや新聞、ネット媒体でも大々的に報じられた。
その結果、普段美術館や芸術に関心のない層にまで断片的な情報が伝達され、浸透した。
あいちトリエンナーレが、今後どのように継承されていくのか、いかないのか。予断を許さないが、大きな問いが突き付けられたことは間違いない。富山県立近代美術館問題も、作品の売却と図録の焼却で終わりではなく、むしろ問題は再燃したと言っていいだろう。
資料
「[美術館の自立に関する]声明文」(1995年8月[16日])
「[富山県立近代美術館問題に関する]要望書」(1995年9月[27日])