1998年の国際美術評論家連盟日本大会実施 事の経緯  南條史生

2019年11月23日 公開

 私と国際美術評論家連盟(以下AICA)の関わりは、1975年のポーランド大会が最初だったようだ。そしてAICAの国際大会は、1998年に日本で初めて開催された。この経緯を書き記す。

 さて私は1994年に、ICOM(国際博物館会議)の分科会の一つであったCIMAM(国際美術館会議)の日本大会の事務局を引き受け、実施した経緯がある。おそらくその実績を見てのことと思うが、1995年に当時の美術評論家連盟の会長だった本間正義氏(当時埼玉県立美術館館長)から、AICAの国際大会を日本に誘致したいという電話をいただいた(この顛末は、中原佑介氏が1999年『美術手帖』に報告を書いている(*1))。

 私は総会の誘致の労苦は資金の問題に収斂するだろうと予測し、事務局を引き受けるのを躊躇した。誘致には主催国側が、本部役員4人とゲストスピーカー10〜15人の旅費、数日間の会場と同時通訳の役務(4カ国語)、事務局運営費などを提供しなければならないかからだ。

 しかし他のAICA日本支部のメンバー(横浜美術館館長・陰里鐵郎氏、国立近代美術館次長・内山武夫氏、東京都庭園美術館館長・井関正昭氏など)からも説得され、結局引き受けることになり、その年(1995年)のマカオ大会で立候補することになった(残念なことにマカオでの開催のおかげで日本はアジアで最初の開催と名乗ることはできなかった)。そして総会での承認の結果、めでたくその3年後1998年の開催が日本に決定した。

 1996年の大会はフランスで開かれた。それはその時レンヌ市でジャン゠マルク・ポワンソという評論家が、レンヌ大学の中にAICAのアーカイヴを作ったからだ。ユネスコにあった大量の資料はこの施設に移管され今も機能している。余談だが、日本もこれと同様に、大学などにAICAのアーカイヴの拠点を作り直した方が良いのではないだろうか。

 さて1997年は北アイルランドのベルファストで開催された。テーマは「紛争地帯のアート」というもので、ボスニア・ヘルツェゴヴィナやパレスチナのアート関係者ばかりが発表し、会場も北アイルランドの紛争の現場で、かなり特殊な体験になった。一方その一年後に会場となる日本が掲げたテーマは「トランジション—変貌する社会と美術」というものになった。

 本番までに本間氏と何度か海外での理事会に参加した。そしてそこでの会議のプロセスを経て、日本大会の三日間のテーマは「伝統からアイデンティティへ」「社会における美術の新しい方向」そして「新しいテクノロジーと美術の非物質化」という3部になった。

 準備するうちに幾つかの障害が生じた。一つは財源である。支援を約束していた国際交流基金が、結局一般公開する最後のシンポジウムだけしか支援しないという話になった。15人の評論家を送り込んできたフランス政府とは、まったく異なった姿勢だった。また、通常は国際会議を受け取る開催都市が出てくるものだが、ついに支援してくれる都市は見つからず、大口のスポンサーなしで、自前で実施することになった。そのためにホテルや旅行の手配、会場の準備など膨大な作業を、ヴォランティアと私の事務所員で仕切ることになった。また最低でも3000万円を捻出するために70社を訪問し、寄付を募った。最終的に参加者は日本から55名、海外から102名が参加した。

 会議は4日間である。開会式はAICA会長キム・レヴィン、AICA日本支部会長本間正義(この翌年に会長は針生一郎氏に移った)、文化庁長官林田英樹の挨拶から始まり、ユネスコからのメッセージが読み上げられた。会場は協力者となってくれた青山のスパイラル・ホールだったが、レセプション等はセゾン文化財団の米荘閣、すみだリバーサイドホール、草月会館などで開催された。

また都内の主だった美術館(東京国立近代美術館、世田谷区立美術館、原美術館など)の訪問も実施している。

  特筆すべき講演者は、フランスのジャン゠シャルル・マッセラ、クリスティーヌ・ビュシ゠グリュックスマン、アメリカのM・A・グリーンシュタイン、韓国の金弘姫(キム・ホンヒ)、中国の栗憲庭、作家として川俣正などで、来日が初めての人も多かった。日本側は高階秀爾、針生一郎、中原佑介、峯村敏明、井関正昭、酒井忠康、建畠晢、近藤幸夫、南嶌宏らの名前が連なっている。今見ると、もう何人も鬼籍に入っている。今日、多くの人が、かつてAICAの国際大会が日本で行われたことを知らないのも宜なるかなである。

 議論の中身をここで詳細に記述することはできないが、最も参加者が多かったのは、「伝統からアイデンティティへ」というセクションだった。これはどこの国にとっても切実な問題だし、特にアジアの参加者にも話しやすい問題だと考えられた。もっとも、この会議の席で南嶌宏が行った「アイデンティティの忘却に向けて—20世紀と表現における主体の解体」という講演は、参加者に衝撃を与えた。彼は国家、民族、宗教などに結びつけられるアイデンティティという概念が、反省されることなく批評の概念として用いられていることに根本的な疑義を提出したのだ。

 また、当時水戸芸術館の学芸員だった森司が「メディアとしてのインターネット」で作品を表する言葉を新たに見つけ出してゆくべきだと語ったことも、その問題とつながっている。一方でアーン・エン・ヤングが「美術におけるコンテンポラリーという概念は、帝国主義的性格を持っている」のではないかという発言して、特にアジアの関係者に新たな問いを投げかけた。

 私は報告書の中で、「変貌する批評そのものの問題をもっと取り上げるべきではなかったか。なぜならパブリックアートも、メディアアートも、社会におけるアートの役割も、未だそれを語るべき有効な言葉を見いだしていないのではないかと思われたからだ。批評の無反省な言語もまた帝国主義的になっているのではないか」と記述している。美術評論家が変貌する社会に生きるのであれば、その言語、その批評のあり方自体にも批評を適用し、新たな地場を築く必要があるのではないか。

 ポストコングレスツアー(総会後のツアー)では、京都で裏千家と共催のレセプションが開催され、また直島まで足を伸ばした人たちは、ベネッセ・ハウスに泊まり宮島達男、柳幸典らと交流したと記録が残っている。

 さてこの大会の事の顛末を知りたければ、大日本印刷の協力で極めて詳細な報告書を出版しているのでそれを見ていただきたい。今では、美術評論家連盟の事務局に記録ファイルと共に数冊残っているだけである。興味のある方は参照していただきたい。

 

1.中原佑介「国際美術評論家連盟(AICA)、初の日本大会」『美術手帖』766号(1999年1月)、182-185頁。

 

『美術評論家連盟会報』20号