1974年から45年間も会員でいながら、しかも最近年は会長の席をけがしていたというのに、美術評論家連盟の思い出は私の中でかなり希薄である。27年間給料をもらっていた多摩美術大学に関しても似たようなものだから、これは私の特殊な性向に由るのかもしれない。帰属意識が薄いのである。あるいは、入会したころ接していた先輩たちの態度に感化されたのかもしれない。一番身近にいた中原佑介氏はああいう冷めた人だから、美評連のことなど、話題にするのも嫌っていた。東野芳明氏は実利のないことには興味を示さなかった。もっと年長の、というより連盟発足時からの重鎮である土方定一氏に、ある時、なぜ連盟の会合に顔を出さないのかと問うたところ、「だって、連盟は何もやっていないじゃないか」と一喝されてしまった。
何もしていない、とは言い過ぎかもしれない。でも、私が時々顔を出していたころの常任委員会には確かにそんな雰囲気があった。会長の岡本謙次郎氏はパイプをくゆらせながらペタンク遊び――フランス発祥の例の鉄球ころがし――の話で相好を崩し、無期限の常任委員長かと思われた三木多聞氏は、議するほどのことが何もない状況にむしろ満足気な様子であった。
そんななか、いまでも時折り鮮明に蘇ってくるのは、1995年初め、「日中美術シンポジウム――二十一世紀に向かう東洋美術」に参加するため、数人の会員とともに初めて北京を訪れた1週間のことである。
実は、中国との交流の機運は、その数年前、87、88年あたりから、おそらくは河北倫明氏の主導下に醸成されていて、そのことに関心を持ち始めた私が、93年3月に東京・日経ホールで行われた「’93 東京・日中美術シンポジウム 日本と中国における近代美術とは何か」を覗き見に行った時点までには、すでに数次の相互訪問が日本美術評論家連盟と中国美術家協会の間で交わされていたのだった。その橋渡しとお膳立てはすべて日中文化交流協会が担っていた。
その95年の訪中団だが、団長の鈴木進、副団長の陰里鐵郎、針生一郎、ヨシダ・ヨシエ、川口直宜の諸氏はいまやみんな鬼籍に入ってしまい、海上雅臣氏は退会。連盟に残っているのは島田康寛氏と筆者だけになってしまった。仕事がら、一番近しいのは針生氏とヨシダ氏だったけれど、そのわずか1年半後の1996年夏、多摩美術大学と目黒区美術館の合同企画「1953年展」でのルポルタージュ絵画の扱いを巡って激論をぶつけ合うことになるはずの針生氏とは、すでに微妙な間柄になっていた。必然、付き合ってくれたのはもっぱらヨシダ氏で、怪しげな胡同(フートン)歩きを楽しんだり、王府井の百貨店で買った五粮液(ウリャンイエ)という滅法うまい白酒を3時間で飲み干して泰然を競ったりする仲となった。つまみは、むろん、日本の60年代美術をどう評価するかの議論。60年代のオブジェ盛行はいち早くトランジスター社会を体験した日本の若者たちにおける余剰品文化にほかならない、というのがヨシダ氏の持論だった。
そんなヨシダ氏を誘って天安門広場の端にあるはずの毛沢東記念堂へ行こうとした私は、思いがけない壁にぶつかってたじろぐ思いをした。「そんなとこ、行くわけないでしょ。ねえ、針生さん」。どんな裏切られた思いを抱いているのか、落ちた偶像に対する先輩たちの感情は私には測りがたいほど複雑で重かった。やむなく一人で記念堂入りの行列に並んだ私は、それでも当時の中国としては精いっぱい美麗な大判の『毛沢東詩集』を買って満足であった。その満足感と、二先輩との世代間ギャップの暗さが、初の北京訪問の思い出としてその後も長く私の中に留まることになる。
滞在3日目は、シンポジウムの主題に沿って「これからの東洋美術」を各パネルが見解発表。中国画(水墨画系)と日本画の対比は安定した平行線を描くだけだったが、油画ないし西洋画に関する議論になると、針生氏と中国側パネリストの間で期せずしてリアリズムが論じられ、当然とはいえ奇妙にねじれておかしかった。針生氏は日本の50年代の社会派リアリズムに依拠し、中国側はまだ資本主義化へのアンビヴァレンツに根差したシニカル・リアリズムなんかが出てくる前なので、ソ連ゆずりの社会教化的リアリズムを背負ったまま。時代の矛盾・汚毒を直視するなどという意識は影も差していなかった。北京中央美術学院の院長など、国の最高権威を背負った画家たちで構成されたパネルだから、在野の批評家を
多く抱えた日本側パネルとは、端から噛み合わないのは当然だった。
その噛み合わない議論はそのまま翌日の全体会議に持ち越され、現代――その実資本主義社会――の矛盾・汚毒を知っているだけが取り柄の日本の前衛擁護者と、遠からずやってくる同じ事態をまるで知らぬげに数千年の歴史遺産で泰然自若としている中国側権威との間で、気まずい膠着感が漂い始めていた。そんな時だったか、たまたまマイクを渡された私は、両国間の溝を埋める言葉を探していたのだろう、「日本の60年代作家たちは時代を表現したのではない。時代の汚毒を身をもって生きたのだ」と咄嗟に喋っていた。元来が先輩批評家たちの前衛擁護に不同調で、60年代の最良の部分は辛うじて「受苦」の感性にのみ宿っていたと考えていたゆえの発言である。「身をもって」という日本語がどう通訳されたか分からない。が、一瞬座が静まったところをみると、客観的分析を経ないこの聞きなれない言葉づかいが人々の注意を引いたことだけは確かだった。どころか、日本側はざわめき、膠着状況で苦り切っていた針生氏は、珍しく白い歯をのぞかせて、「身をもってとはうまいこと言うもんだ」と渋く同感してくれた。生涯、針生氏から受けた数少ない褒め言葉の一つである。
そのほか、1週間もいたのだから、初の中国見聞は盛りだくさんだったはずだが、大方は忘れてしまった。私の中に深く残ったのは、同じ国の批評人にも刻まれた世代間の断絶であり、さらには国と国の体制・経験の違いである。この種の断絶・懸隔は、私たちが日常経験し、そのことで少なからず苦しんでいることであるが、反面、その断絶・懸隔はいわば人間と文化の条件であるのだから、無いかのごとく振る舞うことはできない。やみくもに無くしてしまうこともできない。断絶と懸隔を認めつつ、なお交渉し合い、知り合おうとするのが、人間本来の批評精神の発露なのではなかろうか。
なので私は、日本美術評論家連盟が連盟内部で異質を排除する傾向に陥らないよう願っている。中国や韓国といったややこしい国々や、ロシア、インド、中近東などの縁遠い地域との交流を、欧米との交渉以上に大切にしてゆくことを願っている。パリに本部を置く国際美評連との関係よりも大切なことではなかろうか。批評集団なのだから。