岸田劉生や安井曾太郎をはじめとする洋画史の研究で大きな功績をのこした富山秀男氏が、2018年12月20日に胃がんのため88歳でお亡くなりになった。
富山氏は1930年7月東京生まれ。1953年、東京教育大学(現・筑波大学)教育学部芸術学科を卒業した年に、前年12月に開館して間もない国立近代美術館(現・東京国立近代美術館)に勤められ、今泉篤男・河北倫明・本間正義と三代にわたる次長のもとで同館の事業に携わってこられた。1976年4月、国立西洋美術館に学芸課長として移られ、東京国立近代美術館次長(1982年8月~)を経て、1992年4月に京都国立近代美術館長に就任、1998年3月に退官後は石橋財団ブリヂストン美術館の館長(~2006年3月)を務められた。美術館一筋の道を歩まれた方である。
わたしが富山次長のもとで仕事をしたのは1982年からの10年足らずである。同じ屋根の下で仕事をしているとはいえ、ふだんは自室にいる次長と若手の学芸員が接する機会はそれほど多いわけではない。にもかかわらず富山さん(以下、こう呼ばせていただく)には、仕事の合間のお茶の時間などに、じつにいろいろな話を聞かせていただいた。
富山さんと話したことのある人なら誰でもご存知だと思うが、氏は美術の話ももちろんだが人の話(歴史的人物を含めて)をするのがたいへんお好きであり、固有名詞や年代をひとつひとつひろいながら、その人の人となりや愉快なエピソードを事細かに――たいていは敬愛をこめて――話されることがしばしばあった。人間への広くこまやかな興味や関心が、富山さんの美術館員としての毎日の底にあったのではないかと思う。
一つ思い出話をさせていただく。富山さんがブリヂストン美術館館長を退かれてのちのことと記憶するが、ある文化財団の美術新人賞の審査を何度かご一緒したことがある。いまから思えばその審査会は、親子ほども歳の違う富山さんと職場以外で長い時間を共にさせていただいた最初で最後の機会となった。その席での富山さんは、若い美術家との会話や問答を、じつに伸び伸びと、心から楽しんでおられるように見受けられた。富山さんが美術へと向かうとき、そこにはものを作る人間へのこのような好奇心、このような愛情がはたらいているのかと、あらためて思ったものである。富山さんは美術館人として、美術史家としてのお仕事以外に、安井賞展(1957年12月創設)や倫雅美術奨励賞(1989年7月創設)の運営に長くたずさわるなど、若手作家・研究者の育成や支援にも力を尽くされたことを最後に附言しておく。――ご冥福を心からお祈りいたします。