山種美術館の移転・縮小および学芸員解雇問題について  草薙奈津子

2019年11月23日 公開

 1998年1月、突如「山種美術館の移転、縮小、リストラ」が山種美術財団理事会で決定されました。当然学芸部職員全員が反対を表明し、署名活動等で各方面に理事会決定の理不尽を訴えることになり、さらに裁判にまで発展しました。
 もともとの発端は山種美術財団理事長・山種美術館館長であった山崎富治と誠三兄弟の不仲にあると思います。
 兄弟二人だけの不仲でしたらまだ何とかなったかもしれません。しかしそこに富治夫人(財団の役職についている訳ではなく、財団・館とは一切関係ない)が登場してきて、美術館を自分の意のままにしようとしました。例えば東京国立近代美術館が速水御舟展を企画し、御舟の大コレクターである山種美術館に作品借用を依頼、館(山崎富治)が承諾したにもかかわらず、富治夫人が勝手に御舟作品の館外貸し出しは不可と主張、近美との約束を破棄、そのため近代美術館は御舟展を断念しました。また文化庁が主催する海外展に山種美術館の作品貸し出しを、館として決定したにもかかわらず、これもまた夫人が勝手に約束を破棄してきました。このとき、夫人自ら文化庁に乗り込んだそうで、役所の方もびっくりし、ちょっとした評判になりました。なおこういう行動に出たのは、御舟作品は自分の娘だけのものという歪んだ母親愛に基づいてのことでした。
 こういう無茶苦茶な人ですから誠三氏が怒ったのも当然です。もともと誠三氏はよく館にも顔を出し、展覧会に必要な作品を購入し、協力してくれていたのです。ところが初代館長・山崎種二氏逝去後のある日、富治氏が突然館に来て「今日から僕が館長だから」と宣言したのです。証券会社社長では世間の通りは悪い、美術館館長だと評価が高い、と聞き及んでのことでした。
 さて移転問題にもどりますが、表向きは建物の老朽化と家賃の値上げです。山種美術館は誠三氏の管理する会社(山種不動産)の店子でしたから、もし兄弟仲良くしていればこんな問題は起こらなかったのです。事実、誠三氏は家賃値上げの解決策を提案してきていました。しかし富治氏は老朽化と値上げを原因に強硬に仮移転を決め、千代田区三番町にある一般オフィスビル1階ロビーの一部を借りることになりました。しかし空調などは不完全、防災・防火上も問題のある、仮囲いの仕切り壁を立てたような代物でした。ここに4、5年仮移転し、そのあと現在の六本木ヒルズの一角(兜町にある山種美術館の3分の2弱の広さ)に本移転するとのことで、その際半数の職員をリストラするとのことでした。しかし森ビルは、われわれ学芸員の質問に対し、山種美術館を受け入れる予定はないとはっきり拒絶しました。それにもかかわらず、富治氏は移転可能を信じようとしていたようです。しかし移転の望みもないまま浮草のような状態で、4、5年の予定が11年となり、やっと2009年に広尾に小さな貸ビルを建て、その一部(2フロア)に美術館を移転したのです。山種美術館の所蔵品の内容から見ると、あまりに狭い美術館です。
 一方、館長の横暴に対する反感から、我々学芸部では移転問題が起こる以前より労働組合を作り、全学芸員が財団組合員になり、何とか美術館をよくしようと努力して来ました。しかし団交の時に、富治氏はまるで暴力団の一員のような、恐ろしい言葉使いの人物を連れてきて、職員を威嚇しました。それにもかかわらず職員はずいぶん努力したと思います。ところが1998年8月21日、突然、職員のトップである草薙奈津子と川口直宜の2名を即日解雇する暴挙にでました。この解雇には当然、正当と思われる理由は見いだせず、私たちは裁判に臨むこととしました。「地位保全の仮処分」の申請をしたのです。
 幸い一職員の兄が弁護士であったため、彼に弁護を依頼し、また解雇問題の裁判は共産系弁護士に依頼するのが当然と聞き、共産系の弁護士に依頼、非常に熱心に弁護していただきました。しかし裁判というのはお互いの悪口の言い合いであることがわかりました。富治氏はそれなりに憎めないところがあったのですが、彼の口からひどい言葉が出ます。私たちもそれに負けじと言い合います。実際のところ私はそれに馴染めませんでした。いい加減いやになってきたのです。それに裁判官の若い女性にも不信感を抱きました。そんなことで示談に持ち込むことになったのです。2000年4月和解成立となりました。もし私がもう少し忍耐強かったら、あるいは戦闘的であったら、もっと継続したかもしれません。でも今でも裁判というものはやるべきものでないと思っています。人間の品性を卑しくします。
 なおこの山種問題に関しては単に一私立美術館の内紛の域を超えていると思い、1998年6月2日開催された全国美術館会議(於横浜ロイヤルパークホテル)で草薙が議題として取り上げてもらいたい旨申し出ました。しかし中山公男会長・陰里鐵郎議長の返答は、全国美術館会議は本来、館長の親睦団体であるから、そういう問題は取り上げにくい、もし取り上げてもらいたいならば館長名で申し出るようにとのことでした。山種美術館館長山崎富治名で出せるはずはなく、要するに拒絶でした。私はこれはもはや親睦団体を脱しつつある全国美術館会議を愚弄する中山公男会長や陰里鐵郎議長の旧弊な意見であると理解しました。
 その一方で、外部の方たちから多くの賛同、協力、共感を得たことは私たち当事者にとって大きな力となり、慰めとなりました。2か月弱に署名は1万5千余筆、カンパは300万円近くに及び、そのおかげで裁判を継続することができたのです。また美術評論家連盟が9月22日に発表した「『山種美術館の移転・縮小および学芸員の解雇問題』に関する声明書」は、私たちを勇気づけました。少し詳しく述べると、9月22日、日本記者クラブで声明書を発表、続いて記者会見。出席者は本間正義会長、常任委員の針生一郎氏、本江邦夫氏、当事者であり連盟事務次長の川口直宜、それに連盟会員の草薙の5名。この件に関しては『あいだ』33、34号に高島平吾氏が詳しく書いてくれているので省略しますが、私立美術館におけるオーナーと館員との軋轢に悩む館は多く、この問題に関心が集まったのだと思います。
 結果的に解雇ではなく、和解成立という形になりました。しかしさしたる成果を上げることはできなかったという忸怩たる思いがあります。問題提起するには時代が早すぎた、性急すぎたのかもしれません。

資料
「『山種美術館の移転・縮小および学芸職員の解雇問題』に関する声明書」(参考(1998年9月22日)

 

 

 

『美術評論家連盟会報』20号