評論家はどう死ぬか:さようなら、名古屋覚さん  金澤毅

2019年11月23日 公開

 名古屋覚の死は突然のニュースであった。まだ若い51歳の彼には未来こそあれ、死の影はまったく無かった。初めての電話で彼の奥さんから聴いた話では、去る3月それまで感じていた多少の腹部の違和感がいつもと違うことに気付いて聖路加病院に行ってみると、ステージ4の膵臓ガンと診断されたとのことであった。早速対策が検討されたが、彼は最も回復が難しいとされる膵臓ガンで、しかもステージ5であるならば、もはや運命は定まったものとみて成り行きに任せたいと一切の措置を断ったとのことであった。しかも彼はその経過を当時連載していた『月刊ギャラリー』誌8月号に、「評論家はどう死ぬか」と題して掲載したのである。そこには彼の揺れ動く心境と自らを客体化して見つめるいさぎよいサムライの姿があった。そして5ヵ月後の8月5日、再び緊急入院した同じ病院で亡くなった。

 私と彼とは25年ほどの付き合いがあり、1994年にはサンパウロ・ビエンナーレに同行したこともあった。その時印象的だったのは、朝日新聞の田中三蔵氏などもいた記者会見場で彼は唯一のアジア系記者としてポルトガル語で質問したことで、これには私も少し驚いたことを覚えている。名古屋氏には時折どもる癖があり、私はそばではらはらしながら聞いていたが、本人は一向気にすることなく、見事に核心を突く質問の矢を次々と放ったのであった。その後私は彼が英語、ポルトガル語のみならず、スペイン語やイタリア語、更にはフランス語なども話せることを知り、えらい若者が美術界に現れたと驚くと同時に嬉しくもあった。実は私自身も英、西、葡語を操りながらラテンアメリカ美術を中心に活動してきたので、この分野で活動する仲間が少ないことを常日頃から残念に思っていたからである。国際的な美術交流の場では直接的な人間交流が不可欠で、そのためには通常の情報交換程度の外国語の会話能力が必要とされる。聞けば名古屋氏は商社に勤務する父親と共に3歳からサンパウロでの生活を始め、その後10数年間の在伯経験を持っていたのであった。帰国後は早稲田大学第一文学部に学び、卒業後はジャパンタイムズ社の美術記者として専ら英語を駆使する活動に従事していた。彼はまた自主的にアルゼンチンやキューバなどの美術状況の調査旅行に行っていたが、その度にフレッシュな現地事情を私に語ってくれたものである。この分野を自身の道として選んだのも、ほかの日本人のように外国人を怖がることがないのも、みなブラジル時代の経験が背景にあったのだろうと私は密かに想像していた。

 名古屋氏は自らを「美術ジャーナリスト」と称して活動していたが、進む道は美術評論であることは誰の目にも明らかであった。近年は様々な分野から声がかかり、将来は間違いなく日本の美術評論界の主要メンバーになるだろうとの期待が高まっていた。また彼の論評はまことにユニークで、何に対しても遠慮しない辛口論客として知られ、評論界の異端児と見られながらも次世代を担う期待のホープとなっていた。

 私も彼に何度か活動のチャンスを提供して共に仕事をしてきたが、通常はもの静かで理性的な受け答えをする好青年であった。最後に彼と出合ったのは、去る6月銀座のある画廊であった。いつものようににこやかに挨拶する彼には死の影は微塵も見えなかったが、私を見る彼の心中はどんな思いがあったのだろう。最後までとぼけて去っていった30歳年下の若者に、私は評論家の死に方を教わったような気がした。

 

『美術評論家連盟会報』20号