福島辰夫さんを悼む  飯沢耕太郎

2019年11月23日 公開

   福島辰夫さん(1928-2017)の訃報を聞き、感慨深いものがあった。僕が写真評論の仕事を始めたのは1980年代半ばだが、その頃は福島さんをはじめとして、重森弘淹さん、西井一夫さん、長谷川明さん、平木収さんらが、写真雑誌を中心に健筆を揮っていた。ところが、それらの諸先輩方は次々に亡くなり、気がつくと僕が最年長の世代になってきている。美術評論家連盟の会員名簿に目を通しても、写真プロパーの評論家の数はかなり少なくなっており、しかもその大部分は大学教員か美術館の学芸員である。いわば絶滅危惧種というべき純血種の写真評論家が、また一人姿を消したということだ。

 福島辰夫さんは、一言でいえば「行動する写真評論家」だった。文章を書き綴るだけでなく、それを実践することをめざしていた。その真骨頂といえるのは、なんといっても1959年の写真家グループVIVOの結成にあたって、オルガナイザーとしての役割を果たしたことだろう。東松照明、奈良原一高、細江英公、川田喜久治、佐藤明、丹野章の6人によるVIVOの設立が、日本の戦後写真の展開におけるエポックとなったことは間違いない。そのVIVOの母胎となったのが、福島さんが同世代の写真家たちに呼びかけて実現した「10人の眼」展(1957-59)だったのだ。

 福島さんはその後も、さまざまな形で日本の写真表現の活性化に力を尽くした。1960年代半ばからは全日本学生写真連盟の活動に深くコミットし、その卒業生有志による「491」を組織して、共同制作による撮影プロジェクト、展覧会の開催、写真集の刊行などを推し進めた。1981年から全国33カ所を巡回した「いま!! 東松照明の世界・展」はその最大の成果の一つである。最晩年に近い2011~12年には『福島辰夫写真評論集』が全3巻で窓社から刊行された。最後まで、自らの仕事を世に問う意欲を持ちつづけたということだろう。

 福島さんはまた、明治初期の「北海道開拓写真」、野島康三、安井仲治など、日本写真史の発掘、再構築のパイオニアでもあった。今さらながら、福島さんがやりかけた仕事を引き継いでいかなければという思いが強まっている。微力ながら、そのことで彼の功績に報いていきたい。

 

 

『美術評論家連盟会報』20号