現在、美術評論家連盟(AICA Japan、以下「連盟」)のウェブサイトを訪れると、「声明」と題されたセクションがある。そのページをひらくと、連盟及び会員有志から発信された12の「声明」や「要望書」や「公開質問状」がPDF形式で時系列に沿って掲載されていることを確認できる。それらのうち、「国立競技場壁画保存に関する要望書」(2015年4月2日公開)と「旧中野刑務所正門保存に対する意見書」(2018年10月19日公開)を除くすべての文書が、何らかの形で「表現の自由」の侵害に対する懸念あるいは抗議を旨とする文書となっている。
最初(ウェブ上では最下部)に位置しているのは、2015年1月13日付(26日公開)で警視庁及び東京地方検察庁宛に送付された「ろくでなし子氏に対する不当逮捕と起訴に対する説明と起訴撤回の要求」と題された文書である。自らの性器をモチーフにした作品を「猥褻」と判断され逮捕・起訴された作家ろくでなし子に関する声明である。連盟は、もちろんこの事件以前にも、たとえば、1986年の富山県立近代美術館での大浦信行作品をめぐる事件に際して出された声明をはじめ、理念としての表現の自由を守ることの重要性を訴えた文書などを発しているが、そういった前例の件数は限られている。それを考慮すれば、2015年以降の10件という数字(2019年10月31日現在)は、極端な増加といっていい。これは、連盟の方針が突然変化したというよりは、むしろ日本社会の現実の変化に連盟がなんらかの対応を迫られた結果という側面が大きい。実際、この10年ほどの間には、連盟が組織として対応したわけではないが、会員がなんらかの形で関わった類似の事件も多く、「ヘイト・スピーチ」や「ネトウヨ」といった用語が広く流通するようになった世相とも通じる現象と感じるのは筆者ばかりではあるまい。2012年のニコンサロン(東京と大阪)における安世鴻による慰安婦写真展が中止を余儀なくされ、裁判にまで至った事件(2015年にニコンへの有罪判決で結審)や2014年の愛知県美術館における「これからの写真」展出品の鷹野隆大写真展への「猥褻」を理由とする警察の不当介入事件は、その代表的な例である。
そういった流れの中で、連盟にとって一つの画期となったのは2016年である。起訴されたろくでなし子氏の作品をめぐる訴訟において東京地方裁判所が一部有罪の判決を下したことに対して5月17日付で抗議声明を発したことを皮切りに、同じ月には東京都現代美術館に対して公開質問状を送付している。これは、前年に開催された「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」というグループ展に出品された会田家の作品(日本の教育を司る文科省を批判する文言が書かれたバナー設置)に対し館内で不当な改変要請があったとされる事件(会田誠氏自身のソーシャルメディアなどにおける発言)に対し、館からの公式の説明を求めるためであった。文書内に言及があるように、この質問状送付は、同年7月24日に開催された「美術と表現の自由」と題された連盟主催のシンポジウムの準備の一環だったが、公印も署名もない(したがって真偽も公式文書であるのかどうかも判断できない)無内容な返答が届いただけであった。結果的に会田家の作品に改変はなされなかったので、本件は、あからさまな権力の介入があった他の事件とは性格を異にするも、東京都現代美術館の姿勢は、不誠実極まりないものに終始した。
連盟主催のシンポジウムは、こういった2015年の様々な事象を受け、喫緊の課題として「表現の自由」を取り上げたもので、清水敏男委員長を中心にして、ろくでなし子事件、鷹野事件、会田家事件以外にも、過去20年余りに各地で開催されてきたジェンダーをめぐる展覧会に対する抑圧や偏見について、あるいは80年代の富山近美の事件などの事例をも交え、それぞれの問題に直接・間接にかかわった会員たちを登壇者として活発な議論が展開された。シンポジウムの中では、2016年の春に東京都現代美術館で開催された「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」という、まさに表現の規制および自己規制をめぐるグループ展を巡って生じた諸問題への言及もなされ、観客席からはろくでなし子氏と会田誠氏の発言もあった。当日の発表及び議論の詳細は、すでに連盟HPの「イベント」セクションに詳しい「当日報告」が掲載されているので、ここでは繰り返さないが、会場となった東京都美術館講堂には異例と言えるほどの聴衆が集まり、入場制限を設けなければならなかった。前年から立て続けに起こった表現の自由にかかわる事件が、広い層に危機意識として共有されていたことの表れと見ていいだろう。
話が前後するが、ここで触れなければならないのは、シンポジウムに先立って連盟のウェブサイトで発表された「表現の自由について」(2016年7月4日公開)という宣言文の成り立ちについてである。シンポジウムの壇上でも何度か言及されているこの宣言は、2015年から2016年を通じ、危機的な事象に応じて有志での声明などを発する機会が増え、今一度連盟としての基本理念を確認すべきではないかとの声が会員数名から上がったことに端を発している。調べてみると、AICA本部や各国支部では、「表現の自由」を守ることを組織のミッションの一つとしてすでに掲げていることや検閲をめぐる諸問題を検討する委員会が存在することもわかり、遅ればせながら日本支部においても同じような理念を掲げようということになった。具体的には、それまで「有志」としての声明の起草を手がけていた数人の中心的なメンバーが文案を練り、常任委員会に諮り賛同を得、最終的には2016年11月27日に開催された定例総会において正式に採択された。
これと並行して議論の対象になったのは、連盟としての公式声明を出すための仕組みをどうするかということだった。その発端は、ろくでなし子事件に対する有志の声明に遡る。その起草から発信に至る過程でこれを連盟の公式声明として出せないかという声が上がったのだが、その時点では、迅速に実現するための規約や手続きが整えられていなかった(つまり総会の開催を待つほかない)。作家の逮捕・起訴のような緊急的な事態(今後もないとは限らない)に対応するにはきわめて不十分な体制であることがわかり、早急に仕組みを整える必要性に迫られたのである。過去には、会長名や有志で多くの声明を出している連盟ではあるが、そのつどの執行部の判断に任されてきたようで、採択及び発信のために定められた仕組みがあるわけではなかった。そのような事態を受け、「表現の自由について」の起草にかかわったメンバーを中心に議論を進め、2016年7月24日の常任委員会にて規約の第5条2に「連盟としての声明は、3分の2以上の常任委員の同意を得て発表する。それに満たない場合は連盟会員有志として発表する。」という一文を加えることが提案され、同年11月の総会にて、上記「表現の自由について」の宣言文とともに採択された。
このような2016年の一連の出来事の背景には、表現の自由をめぐる状況が悪化の一途をたどる日本社会の現状への共通の危機意識があったが、2017年以降も類似の案件が定期的に発生し続け、現在に至っている。2017年5月31日付(同日公開)の「『群馬の美術 2017』における白川昌生氏の出品取り消しについての抗議声明」は、表題の展覧会に招聘された白川氏の群馬県朝鮮人強制連行追悼碑を模したインスタレーション作品が展覧会前日になって撤去された事件(実際の碑が、当時、その撤去を巡って県と設置主体であった市民団体との間の訴訟の対象になっており、いまだに係争中である)についての抗議声明であり、会員三名が起草に関わり、新規約のもと常任委員会での審議を経て連盟の名において発信された。
2018年には、同年2月から3月にかけて国立新美術館を会場にして開催された「第41回東京五美術大学連合卒業・修了制作展」において、複数の作品に対し「肖像権の侵害」や「外国人および人種差別への抵触」を理由にして撤去指示があった可能性がSNSや雑誌報道などで報じられたことに対し、当美術館に対して公開質問状を送付し(2018年6月5日付)、美術館からの回答を得ている。貸し会場となった美術館、展覧会を主催する幹事校と他美大関係者、会場設営を担当する業者などが複雑な関係を結び、権力関係が分散された中で起こりうる曖昧な事例であることが確認された。
2019年5月26日付のNTT東日本及びNTTラーニングシステム社への公開質問状は、その傘下にあるICCで2018年6月から2019年3月にかけて開催された「オープン・スペース2018 イン・トランジション」において起こった吉開菜央氏の映像作品への改変要求についての問い合わせである。作家本人のソーシャルメディアにおける発言から明らかになった本事案については、NTT側からプロセスに不備があった点を認める返答があり、さらに今後の改善を求める連盟の見解を伝えたという経緯があり、連盟のHPに全応答が掲載されている。「多様性を尊重する」という考え方が、多様な価値観の違いを尊重するという本来の意味ではなく、多様な観客皆を不快にしないために誰にでも受け入れられる最大公約数的な表現を目指す同調圧力として働く現在の日本社会の問題を認識させられた事件であった。
最新の重要事件としては、あいちトリエンナーレ2019をめぐる意見表明がある。これは、各種メディアを通じて広く知られることになったトリエンナーレ内の一セクション「表現の不自由展・その後」(以下、「不自由展」)が、暴力的な威嚇行為や脅迫などによって開始後わずか3日で閉鎖を余儀なくされた事件に対して連盟が2019年8月7日付で上記の新規約に則り採択し、同日に発表したものである。本声明は、前年9月に発足した「表現の自由研究会」(後述)のメンバーによって起草されたものだが、急速な事態の展開にやや遅れての発表となった。
発表にわずかの遅れが生じた理由について備忘録的に記しておけば、もともと連盟は、閉鎖決定がなされる前に河村たかし名古屋市長や菅義偉官房長官らの影響力のある政治家が「不自由展」を問題視するような発言をした時点で危機を感じ、彼らの介入的な言辞を批判し閉鎖を回避する一助となるべく声明を緊急的に用意し、常任委員会での採決にまで至っていた。その発表の準備が整っていた3日の時点で「閉鎖決定」のニュースが報じられたため、この第一稿を破棄し、あらためて現行の声明の作成に着手するという経緯をたどることになった。結果として、河村、菅両政治家の発言に対する言及は残しつつ、さらに本来展示を守るべき行政の責任が正しく果たされなかったことに強い懸念を表明する内容の意見表明になった。なお、本声明については、国際展にかかわるということもあり、連盟として初めて声明の英訳バージョンを作成し発表している(8月15日付)。
トリエンナーレに関しては、その後、菅官房長官が曖昧な言葉で示唆していた文化庁の補助金の不交付決定が現実のものになるという異例の事態を迎え、9月29日付で8月7日の声明に紐付ける形で緊急的に抗議声明を出すことになった。この不交付決定が、連盟のみならず、日本社会全体に大きな波紋を投げかけ、未だその収束を迎えていないことは周知の通りである。
さて、最後に、「表現の自由研究会」について触れなければならない。その端緒は、2016年の「美術と表現の自由」のシンポジウムが開催されて以降、今後の日本における「表現の自由」をめぐる状況の悪化の可能性を見据え、生じうる問題への適切な対応を意識したタスクフォースが連盟内に必要ではないかとの意見が複数出されたことに遡る。細部には立ち入らないが、議論はいくつかの段階を経て、2018年9月2日に正式に何らかのタスクフォースが設立されることが常任委員会で議決された。9月26日に岡﨑乾二郎、沢山遼、清水敏男(代表)、土屋誠一、林道郎、光田由里のメンバー(五十音順)で第一回会合が持たれ、その場で「表現の自由研究会」の名称が決定され、笠原美智子、小勝禮子、高橋綾子、藪前知子の面々を加えた体制でスタートすることとなり、11月11日には、常任委員会の諮問機関という位置付けを正式に与えられ、その後、2019年5月に成相肇が加入し現在に至っている。
以降、表現の自由関連の問題が生じるごとに、この研究会のメンバーの中で議論をし、草稿を練り、それを常任委員会に諮り、連盟の正式な声明として発信するという形式ができた。現在もそのシステムは継続しているが、あいちトリエンナーレの件などを経験し、メンバーへの過剰負担など、すでに指摘されている問題点もあり、さらに今後の改善が求められる現状となっている。
以上、2015年以来の表現の自由をめぐる諸事象について簡単に触れてきたが、おそらくは今後も多く同様の事象が生じてくるのではないかと懸念される。美術評論家連盟としては、さらに体制を整えて、それらの事態に適切に対応できるように力を傾注していく意向である。
「ろくでなし子氏に対する不当逮捕と起訴に対する説明と起訴撤回の要求」(2015年1月13日) (会員有志)
「[国立競技場壁画保存に関する]要望書」(2015年3月9日)
「ろくでなし子氏に対する不当判決への抗議声明」(2016年5月14日) (会員有志)
[東京都現代美術館における会田家の作品撤去・改変要請問題に関する質問状]」(2016年5月25日)
「「群馬の美術 2017」における白川昌生氏の出品取り消しについての抗議声明」」(2017年5月31日)
「[平成29年度 第41回 東京五美術大学連合卒業・修了制作展」に関する]公開質問状」(2018年6月5日)
「平成29年度 第41回 東京五美術大学連合卒業・修了制作展」における「表現の自由」の問題、および美術評論家連盟の今後の方針について」(2018年7月29日)
「旧中野刑務所正門保存に対する意見書」(2018年10月19日)
「ICC出品作の改変に関する公開質問状」(2019年5月26日)
「ICC出品作の改変に関する公開質問状」への回答に対する美術評論家連盟の見解について」(2019年7月22日)
「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の不自由展・その後」の中止に対する意見表明」(2019年8月7日)
「Remarks on the cancellation of After “Freedom of Expression?” at the Aichi Triennale 2019」(2019年8月7日)
「[「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金不交付決定への]抗議声明」(2019年9月29日)