追悼・石崎浩一郎さん  三頭谷鷹史

2018年11月09日 公開

 私は石崎さんより一回り年下であるし、美術的な活動を共にした経験もない。しかし、意外に近い関係にあった。彼が名古屋造形大学教授として中部地域に移住してきた頃に初めて会ったが、その後私も同じ大学に勤めるようになったので、15年くらいは大学などで日常的に会っていたのである。それに図書館長をしていた石崎さんは、わざわざ副館長の役職を新設して私を引き込んだ。おかげで仕事が増えてしまったが、まあ、仲はよかったのだ。
 石崎さんといえば、アメリカ現代美術、とりわけポップ・アートの紹介者として大きな役割を果たしたことが知られている。そして、こうした美術評論家としての仕事とともに、もう一つ、映画分野の仕事も大きい。1964年に足立正生、飯村隆彦、大林宣彦、金坂健二、佐藤重臣、高林陽一、ドナルド・リチーらと実験的な個人映画の制作・上映グループを結成し、日本初の個人映画祭「フィルム・アンデパンダン」を開催した。その後も映画・映像評論家として活躍している。なお、大林監督の16mm『いつか見たドラキュラ』(1966年制作)には出演もしているようだが、私は見ていない。
 実はもう一つの分野があったのではないか。そもそも私が最初に読んだ石崎さんの論文は、美術分野や映画分野ではなかったのである。今も所蔵している季刊雑誌『パイデイア』1972年夏号、そこに掲載された「狂児・織田信長」がそうだ。「死の意識と添い寝する」信長について語り、「この狂児の錯乱した行為にときに詩に近いものをおぼえる」と書く。前衛芸術と同列には語れない分野である。そして、名古屋造形大に来た理由の一つに織部研究があったと、本人から聞いた覚えがある。この地域が古田織部や織部焼の研究に便利というわけである。
 信長~織部、こちらは未完の研究であろう。しかし、美術(芸術)が本格的な終末期に入ったと思われる現在、この第三の研究の方が時代を乗り越える力を持っているように思えてならない。もっと詳しく聞いておくべきだったと、後悔している。