追悼——三木多聞氏のこと  松本 透

2018年11月09日 公開

 近代日本彫刻史研究や美術評論の分野で大きな功績を残された三木多聞氏が、4月23日に89歳でお亡くなりになった。
 筆者が東京国立近代美術館で三木氏(当時、企画資料課長)の下で仕事をしたのは、80年代初め——ちょうど氏の立案による東近美でのほぼ最後の展覧会「1960年代―現代美術の転換期」に前後する2年足らずに過ぎない。しかも氏は、美術館の昔話その他ヤボな話を一切口にしない方であった。残念なことにオーラル・ヒストリーの宝庫のかたわらにいながら、直接うかがうことのできた話は思いのほか少ない。じつにもったいないことをしたと思う。たとえば、三木氏が美評連会員証の威力を思い知ったのは、「1968年5月」のパリであったという話をうかがったことがある。だが、どのような具合に役立ったのかは、つい聞き漏らしてしまった。三木氏のご尊父が彫刻家であることはお聞きしていたが、岸田劉生や恩地孝四郎と同年生まれの木彫家の仕事ぶりについて知りたいことは山ほどあるのに、これまた肝心なことを聞きそびれてしまった。ちなみに氏の最晩年のお仕事に『三木宗策の木彫』(私家版、2006年5月)があり、その回顧展が2015年に郡山市立美術館で開かれている。
 「1970年8月:現代美術の一断面」展のことも、「現代美術の新世代」展(1966年)のことも、「現代美術の実験」展(1961年)のことも、何ひとつうかがわぬままに終わってしまった。たとえば「実験」展で、作品の周囲に大量の5円玉硬貨を撒き散らした菊畑茂久馬《奴隷系図》を展示するために、三木多聞氏が当局相手にどれほど苦労されたか(おまけに展示中の後日談まである)——といった話を聞いたのは、何十年もたってから、氏からではなく作者からである……。
 三木多聞氏は、草創期の近美に始まって、文化庁文化財保護部企画官(1982-86年)、国立国際美術館長(1986-92年)、徳島県立近代美術館長(1992-97年)、東京都写真美術館長(1995-2000年)等の要職を歴任された。美術史家とか美術評論家とか呼び名はいろいろあるであろうが、その生涯は「美術館人」のひとことに尽きると思う。大先輩のご冥福を心からお祈りいたします。