今年6月「国難と美術」と題して講演。ノーベル文学賞カズオ・イシグロの「浮世の画家」に触れる。戦時下翼賛美術の音頭をとって浮世よろしく生きたご都合主義で卑劣な画家と憂き世として抵抗した画家を浮彫にしたところを紹介。侵略を糊塗したプロパガンダ美術、対して抵抗精神のこもる一握りの試みも作品で示した。
それにしても、反近代オブスキュランティズムの復活に傾く現保守政権の動向に、美術はどう対応しているだろう。この非合理な戦前国体への動きや思想に対してむしろ靡いて名利を得ようと、芸術のインテグリティなど疎かにする向きは出ていないだろうか。横山大観、藤田嗣治が何かにつけ鳴り物入りで回顧されるが、虚勢や嗜虐を煽る負の部分にどれだけ批評のメスを入れてきただろう。マスメディアの情報操作、業界の歓迎、国家の思惑が見え隠れするのだ。そして忘れてはならないのは、かつて評論家や文学者、映画や音楽関係者も国策強行の意向に合わせ自由の圧殺に与したという事実だろう。天皇への献上を拒まれた「國之楯」の作者小早川秋聲が一部黒塗りし、永らく隠し続けたのはなぜだろう。
じっさい、現政権の強権手法は権力への忖度を招き、美術界でも管理側の過干渉や作品撤回が相次ぎ、検閲を恐れるかのように事なかれの風潮が目立つ。そして、もはや自立批評の余地などほとんど残っていないのではないか。
一方クール・ジャパンや“アートで稼ぐ”最新の政府構想などは、経済成長の一助にと売れる美術館蔵品の放出や売れるアートの奨励を目論む。表現の自由には掣肘を加えながらの無知蒙昧さそのものだろう。要するに芸術のインテグリティなど端から頭にないのだ。国難を煽り国家総動員法でも成立させれば、現憲法半世紀の美術の少なからぬ自由などは、束の間の夢だったと振り返る時代がやってくるに違いない。蒙昧国体の美術家像を衝くイシグロの上記作、1986年出版。