今年、2018年の5月、自身のウェブサイト「Art & Article」(https://www.mfukagawa.com/)を立ち上げた。主目的は、自身の評論を公表する場を開くことと、執筆してきたテクストを評論を中心にアーカイブすることの二つである。1988年に美術館キュレーターとしての活動を始め、それと並行して執筆の活動が進んだのでほぼ30年ということになる。
当時から、欧米と比べ圧倒的に評論の場が少ない日本では評論の機能不全は常態であったが、90年代後半のデジタル化の急激な進展とともに雑誌等の評論媒体のあり方も急変し、紙の媒体での評論の場はさらに狭まった。そんな潮流の中で書かせていただいた自らの言葉を振り返ってみると、作家や作品についての論述を通して、作家・作品の存在を言葉として残すだけではなく、その言葉が発せられた時代の雰囲気やリアリティを蘇生することができるのではないかと感じた。とすれば、その言葉をアーカイブすることで、ささやかではあるが芸術・文化の歴史的な痕跡を照らし出すことができるのではないか。そうした試みをデジタル化がもたらした恩恵の媒体=ウェブサイトで「ひとりでもすなる」ことができるのなら「隗より始めよ」だ。
批評のアーカイブというテクストのあり方は、評論家が社会的に存在する有効な方法の一つになりうる。今日、無尽蔵の数のテキストが、ネット上にデジタル化したハイパーテクストとして漠然と存在するが、エントロピー増大の法則に従いいずれ霧散する危うさに晒されている。言葉が歴史を伝えてきたとするなら、その歴史が霧散するということだ。批評のアーカイブは、エントロピーの濁流に棹立てて抗う言葉たちの住処として有効な装置となりうるのではないかという希望的観測だ。折々の時代に生きる人間として作品、作家、著作、事象等に対峙しながら自らの確たる視点から胚胎される批評の言葉たちは、評論家の眼力を発火点にして、その時々の社会的現実を否応無しに映し出す言葉の磁力を強く帯びていると思われるのである。