内田巌(1900~1953)の遺族より、戦中から戦後にかけて藤田嗣治が内田に宛てた書簡の写しが送られてきた。言うまでもなく、内田巌は現在の新制作協会の創立会員で、戦後は日本美術会の初代書記長となり、画壇民主化のリーダーとして名を馳せた洋画家。そんな内田と藤田との関係は、藤田に戦犯の烙印を押し、日本から追いやったというエピソードに象徴されてきた。ただ、それはあくまで藤田側の主張で、真相は謎のままだ。
1943年から1946年まで、21通の書簡内容がパソコンで打ち換えられた文面を読むと、藤田と内田の親しい関係が伝わってくる。短歌や俳句を交換していたようで、藤田の歌や句があり、戦争末期には疎開先での苦労が吐露される。そして敗戦直後、8月24日とある手紙。まずは内田の手紙が届いて安心したとした後、「今日々予期せぬ戦争の終局を見て只々茫然といたしました。今までやつた事が皆水の泡になりました」と書き始められるが、「この上は文化方面で日本は将来世界を負かすより外なく もう自身の芸術を以て邁進する事と決意を以てやります」「丁度悪夢を見て居たつもりで戦争前の生活と今度の生活を続けて途中戦争中の事丈を忘れ様としています」と、軽やかな変わり身を示し、それが藤田らしいともいえる。ただ、最後に「戦争中の僕の手紙等焼いてください つまらぬ記念は残さぬ方がいゝと思います」と書いているのが意味深だ。
藤田が敗戦直後、戦争画関係のスケッチや写真を焼き、宮本三郎や猪熊弦一郎等にも同様のことを勧める手紙を送ったという話は他にも伝わる。藤田が自身の戦争時代の記録と記憶を消したかったということは確かなのだろう。内田もそんな藤田の心境を感じたに違いない。それが内田の頭にあり、日本美術会で藤田の戦争責任論が持ち上がった際に、兎に角耳に入れておこうと考えてもおかしくない。今日伝わるエピソードも、藤田側が主張するような“戦犯通告”ではなかったのではないか。
勿論、これだけで真相は分からない。ただ昨今、一方向から藤田嗣治の再評価が進められている状況に対し、もっと多方向から検証されることを望むまでだ。