去年の「短信」で触れた中国・銀川での「声東撃西-東亜水墨的芸術当代再造」展図録が出版されたことをご報告。さて、身体が儘ならなければ、「頭のフットワーク」に専念でしょうね。今年の敗戦記念日頃のTVの特集で目立ったのは、数少なくなってきた生き残りの日本兵たちが死を身近に感ずるなかで語り始めた事だったが、まあ、他人事ではない(例えば2016年夏に「ハルハ河戦争」の地であるノモンハン近くを旅行した事を思い出す)。
「頭のフットワーク」-現代の水墨表現の再検討もその一環。いま人々が無意識のうちに前提としている「美術史」(そして美術批評)は20世紀の西洋が作り上げ、錬成してきたものだが、その思想・方法はもう終ったと僕は考えているので、そのことの検討がもう一つ。その系の一つともなるが、例えば「抽象絵画」の再検討を始めたところである。なんでも「イズム(-ism)」で峻別して対比しようとした「西洋20世紀型美術史」は、「抽象絵画VS再現絵画(写実絵画)」というプロクルーステースの寝台式のしゃちこばった論理を基本にしたこと、これが問題の一つ。従って、もう一つは「抽象絵画」をもっときちんと考察してこなかったこと、これがもう一つの問題である。幸い、台湾の抽象画家である薛保瑕(Ava Hsueh)さんに文章を依頼されたので、それを機縁に、抽象絵画再検討の最初の文章(のひとつ)を書くことができた。「抽象絵画」にとって「主題」とは何か、何が「主題」となりうるのか、ということから論じている。というか、それが「抽象絵画」の究極の問題だろう。
おまけに自己宣伝-拙誌『徘徊巷』、2017年は定年退職のゴタゴタで刊行できなかったが、今秋~年末刊行を目指して第17号を準備中。書き下ろし部分を増やしたいと思っているけれど、果して旨くいくかどうかは判らない!