僕はある段階から、画家(美術家)の一人一人、作品の一点一点にしか興味を持てなくなった。動向、傾向、流行、潮流、トピックスを始めとする「周辺」の事柄にはほとんど興味が湧かなくなった。年齢のせいだろうか?
一人の美術批評家が生涯に書きうる文章はもちろん限られているから、絞るほかはない。若さにまかせて何でも書くという時期があってもいいけれど、そこからが各人の選択なのだろう。僕は枝葉末節や周辺の事柄よりも、作品そのものにターゲットを絞ることにしてきた。同時に、西欧近代が作り上げて洗練させてきた「20世紀型美術史」の思想と方法は既にその役割を終えたという感を深くしてきたので、それを前提にしないこと、その達成は尊重しつつもそれからは距離を置くことを心掛けてきた。
作品そのものについて書く、それも間接フリーキック(作家の生涯とか交友とか社会的位置・役割とか)ではゴールは狙えないし、だいいちフィールドに居るのは、作品そのものを別にすると、つまるところ僕一人なのだから直接フリーキックしかありえない。その際、僕が「下敷き批評」と呼んできた態度、主として欧米から借りた(輸入した)思想にのっとってカッコよく、あるいはカッコをつけて(「これが世界の最新の思想だ!」)議論を展開する批評だけは、どうしても性に合わなかった。ここが「悪い場所」だとして、「悪い場所」というフィールドではその間尺に合ったやり方がふさわしい。いやこれは、僕自身の能力の足りなさの言い訳ではないつもりですけどね。
そう思い決めて書いてきたのだが、年齢も押し詰った秋の夜寒にふと見渡すと、いつのまにか寒い世の中ではこういうのはあまり流行らなくなってきたみたいだ。仕方ないかな。「先端的波乗り競争」(常に先端的なものに飛びつく)と「文化的焼き畑農業」(一つの畑を焼き尽して次の畑に向う)という風土に、あまり変化はないらしい(村上春樹『やがて哀しき外国語』)。
結局、僕にとって美術批評とは、「美術家」(存命であれ過去の人であれ)その人というよりは、その作品と個人的にコミュニケートしようとする試みである。自分が惹かれる作品の声に耳を傾け、作品のなかへ、その奥底まで入り込み、そこに可能なかぎり居続けようとし、作品の「身体」を感じとり、感じとったものを自分の身体を通して批評へと持ち帰る。といって、むかし言われた「印象批評」なんていうのは論外だけれど。僕には「美術批評」はそれ以外には考えられなかったし、今も、相も変らずそうである。進歩がないなあ。
美術作品の本質は「あたし以外のものを見ちゃダメ!」と言ってきかないところにある。そう言われちゃあ、余所見はできないし、浮気なんてとんでもない。借り着で装っても、相手はお見通しだ。当方の進歩のなさとカッコの悪さに居直るつもりはないが、借り着を「進歩」とか「最新」とか「グローバリズム」とか、あるいは「地域主義」とか「パトリオティズム」などと勘違いすることほど酷くはないだろう。
だって美術作品は、例えば西洋人形と「性格」や「美しさ」や「本質」を較べられることをいちばん忌み嫌うから。外つ国から美術が到来する前、「比較」ということはあったっけ? いや、この列島では美術じたいが外つ国からやってきたんだっけ。まあ、いいか。
「あたし以外のものを見ちゃダメ!」の前で、美術批評に何が起るか? そして何ができるか? ここをどう考えるかが「美術批評」にとって、じつはなかなか難しい。
作品そのものについて言葉にする——ふつうは考えたことを言葉にするということだが、ここで「考える」とはただ理知的、理論的、論理的に「考える」だけでは済まない。逆に思いつきの類を脈絡もなく、あるいは脈絡をもたせながら、並べたてること(そういうのを現代の「印象批評」と言うべきでしょうね)でも済まない。「感覚」をベースにしながら、論理も思いつきも(少なくとも一度は)そのなかに溶かし込んで、いわば蒸らし、熟成させる。「蒸らす」というのは美術作品そのものに正面から向き合うようなものに変えるという意味だし、その上で「熟成」とは(例えば状況批評を)作品批評に変成させるといった意味だ。
そうやって出てくるものを、ある程度はまとまったものに言葉で仕上げる。その時、ここが最後に肝要なのだが、言葉でまとめる、つまり言葉で辻褄を合わせるのでは、依然として間接フリーキックなんですね。言葉に仕上げる、「感覚」が一つのかたちに成ったものを、「感覚」のまま、言葉に仕上げるのである。「言葉で(言葉によって)」と「言葉のなかに」の違い——簡略にいえば前者は始めから終りまで基本的に「言葉」であるのにたいして、後者は始めから終りまで基本的には「言葉」ではなくて「感覚」なのであり、そうあろうと心掛けている。
そういえば、むかしルネ・マグリットが「感覚の論理」ということを言ったっけ。「感覚には言葉とは異なる固有の論理がある」という意味だろうし、僕もかつてはそんなふうに理解していた。でも今は、僕はそうは考えない。マグリットは譬喩として言ったのだということを考慮に入れても、ちょっと違和感がある。感覚には感覚固有の「広がりと流れ」があるが、それは「論理」ではない。それを「論理」という、「言葉」に関わる用語で括ったり譬えたりすると間違える。ズレてしまう。つまり作品そのものから離れてしまう。そんな気がする。
「言葉」を書こうとして、せめてこれくらいの労は厭わない——それでこそ美術批評というものだろう。だって、語ろうとする対象は、いま「近代美術」の終末期まで来ているけれど、かなり特殊な、特異な芸術だからである。しかも「美術」は、外界の事や物の外見を再現的に描く(主題主義)ところから、それを否定する「芸術至上主義」まで歩んだ。しかもこの美術の「芸術至上主義」は、他の芸術ではほとんど例のない地点、つまり「完全な芸術至上主義」までいちおう実現させてしまった。
かくて今や「主題主義」のすべては形を変えたプロパガンダ芸術に(しばしば当人の自覚がないまま)なりがちだし、後者の方は「概念」か「物質」かという袋小路からなかなか出られないし、でなければ相も変らず新しい技術(テクノロジー)依存や新思想依存に飛びつきがちで、そしてこれら以外には未だ確かな可能性をほとんど見出せない地点でウロウロすることになっている。それが「美術」の現状でしょう。
そんなにややこしいから猶更まず「言葉」で、「言葉の論理」で考えてみる必要がある。それに一理も意味もあることを否定はしないけれど、「俺のとはちがうなあ!」(テレビの見過ぎ?!)。ややこしいからこそ「作品」という原点、唯一の原点の場所を大切にするのがいいのじゃないかしら。終末期の「近代美術」だが、まだけっこうしぶとく続きそうだし、仮に美術がまったく異なる(それは勿論「新しい」とは限らない)ステージに入っても、美術作品の「あたし以外のものを見ちゃダメ!」は、消えないような気がするし。