検閲から見えてくる美術批評の役割  アライ=ヒロユキ

2018年11月09日 公開

 検閲という言葉が、ここ数年美術界で話題になってきた。国際美術展での自由の阻害を仄聞するが、日本国内の各領域での頻発も報道される。
 この問題の複雑さは、自由の阻害が「検閲」に限定されない多様な形態を持つことだ。そのため拙著『検閲という空気』(社会評論社)では、副題に「自由を奪うNG社会」と包括的な「NG」なる言葉を与えた。
 検閲をNGに言い替え、多彩な事例を見渡すことで得られるのは「制度の可視化」である。独裁者が表現ひとつひとつを見て回るわけではない。真摯かつ果敢に主張することを怖れる意識が社会の隅々まで充満するとき、NGがさまざまな形で生じる。その社会心理の一端は流行語の「忖度」があらわす通りだ。
 表現の自由はしばしば、国家権力と表現者の対立の二元論で語られるが、これは事態を単純化する弊がある。プラットフォームのありようの問題である。ここでは美術を例に見ていこう。美術館が表現の自由を侵害した幾つかの例がある。作品改修を作家に強制したもので、2014年の東京都美術館の中垣克久、翌年の東京都現代美術館の会田家(未遂)などがある。
 これに加え、容易に可視化されないものに作品を取り巻く情報環境、つまり作品の説明文、展示構成、補足情報に対する歪曲と曖昧化がある。たとえば、2013年の千葉県立中央博物館での企画展「音の風景〜うつりゆく自然と環境を未来に伝える〜」のなかの日本サウンドスケープ協会20周年展「音の風景の地平」に永幡幸司が出品した連作〈福島サウンドスケープ〉への自筆説明文が展示主催者によって改竄された。彼が所属する大学当局の放射能除染対応への批判文が起こす社会的影響への「忖度」が理由だ。
 表現の自由の侵害は美術というプラットフォームを蝕むNGの部分に過ぎない。ライター(批評家)の展評(レビュー)に対する事前検閲という言論の自由への束縛(侵害)もある。担当の学芸なり広報なりが行うものだが、展示施設、企画者、展覧会によりその実施の有無と状況はまちまちだ。美術展の主催者はともすれば統制というかたちで情報の品質管理を望むが、これは批評やジャーナリズムの自律性を損なうものであり、あってはならないことだ。
 美術館や博物館は、時事問題という現代よりむしろ過去の事例をより多く扱う。松代大本営跡の説明板から「強制連行」の加害記述が曖昧な史実に訂正されたが、日本各地で同様例は多発している。美術館もまた史実記述から「政治色」を払拭する傾向がある。加害の史実に対する賛否の両論併記、社会背景の意図的な記述敬遠、些末でニュートラルな専門用語への言い替えなどがある。政治色を持つ意図が作品説明文で曖昧に記述される場合もある。
 いま隆盛の地域美術展(ビエンナーレ)は、国内の政治事情に言及する公共の場として機能していない。公募プログラムで「政治、宗教などに関する活動」の除外をうたうところすらある。
 NGという言論表現への干渉の特徴に政治色の脱色がある。これは社会に「無色の公共性」をもたらす。政治の自浄作用を損なう右傾反動化における「無色」とは支配的な社会潮流に身を委ねることだ。ここで戦前戦中にファシズムに荷担した美術界の過ちを思い起こす必要がある。
 美術館やギャラリーなどのプラットフォームもまた表現を無色に見せかけ、さらに無色に生まれるよう働きかける。作家による「自己検閲」の例も幾つか聞かれる。海外のビエンナーレやアートフェアには政治色の強い、社会の現実と対峙する作品も多く、アートシーンを動かすひとつの柱となっている。日本の惨状は表現の場の弱さに直結している。
 美が中立のものという信仰は大きな間違いだ。美という言論表現=情報は、常に経済という下部構造、政治という社会制度のなかから生み出される、きわめて状況的な存在だ。
 こうした美のあり方を暴き、そこに潜む制度にメスを入れ、公の議論を喚起すること。その道筋を指し示すことも美術批評のあり方だろう。
 表現/作品が状況的な存在なら、NGからの解放が善でないこともある。美術館やギャラリーが制度なら、そこで開示される表現/作品は権力のあらわれでもある。ここに民族やジェンダーなどの人権思想、社会的抑圧や不正を直視する人々からの異議申立が生まれる根拠がある。
 無色の表現/作品で構成される無色のプラットフォーム=情報環境は、議論そのものを政治色の名のもとに封じ込める。NGとは、ときにマジョリティが見ようとしない問題点=「間違い」(ジャック・ランシエール)の指摘でもある。
 議論は公共の場の表現がより良く活かされる道でもある。作品は美術館内では強い排他的な権利を持つが、公共の場では排他性を持たないがためときに批判を浴び、市民の権利との擦り合わせが生じる。2018年の福島でのヤノベケンジ(ただし福島ビエンナーレ2018全体はより複雑な問題を抱える)、2017年の沖縄での岡本光博の作品に対する批判がこれに当たる。
 表現/作品の一方的な排除はあってはならないが、独善的な他者の抑圧もあってはならない。共存に至る道に必要なのが議論だ。
制度を可視化し、問題点を明らかにし、議論によって共存を探る。そのための公共的なアプローチの模索も美術批評の責務だ。